ふらっと昔住んでいた永福町という町に行った時、20年前に僕が通っていた幼稚園が取り壊されているのを見た。
園舎は瓦礫の山になり、園庭にあった大きな杉の木は引っこ抜かれ、大仰なのは解っているけど空爆とか津波の後のそれに似てると思った。それは仕方ないにしても幼稚園の看板が泥に投げ捨てられていて、ちょっと悲しい気分になった。無茶苦茶するな。
31 August 2014
10 August 2014
Tinker Taylor...
この数カ月、「そろそろ勉強に本腰をいれて取り組まないと」という焦燥から、昔のように本を読まなくなってしまった。僕の脳ミソはとっても無能なので何でもすぐに忘れてしまう。何度それで痛い目をみたことだろう。
忘れていく分以上のインプットを続けないと自分の中が空っぽになってしまうのではないかという恐怖があって、それが今まで僕を活字に駆り立て、今の生活に辿りついたような気もします。
最近、減った読書に代わって休日前の夜に見る映画が、とても大切なものになりました。
今日は個人的にお気に入りの映画をご紹介します。
忘れていく分以上のインプットを続けないと自分の中が空っぽになってしまうのではないかという恐怖があって、それが今まで僕を活字に駆り立て、今の生活に辿りついたような気もします。
最近、減った読書に代わって休日前の夜に見る映画が、とても大切なものになりました。
今日は個人的にお気に入りの映画をご紹介します。
『裏切りのサーカス』
原作はジョン・ル・カレのTinker Taylor Soldier Spy。ご存知の方も多いでしょうが大傑作「スマイリー三部作」の一つです。早川から翻訳もでていますが別ものといってもいいでしょう。訳はイマイチですが(偉そうに、、、)、こちらもなかなか面白いです。
私、スパイ映画には目がないのですが、この映画には007をはじめとした大作スパイ映画のような派手なアクションもお色気も殆どありません。
キャストは微妙に豪華ですが、ジジイ達が2時間ひたすらボソボソ喋っている地味な映画です(笑)
最初、レンタルで見た時は半分すぎるまで話の筋を追うどころか登場人物の名前(偽名や暗号名が前フリもなく出てくるので^^;)すら覚えることができなかったのですが、どーしても悔しかったので再レンタル。
不思議なことに、二週目は絡まった糸を解いていくような快感を味あわせてくれます。3週目は更に面白い。結局DVDを買ってしまいました(笑)
「ただジジイがしゃべくる」という一本ですが、エンディングのLa merが流れた時に味わう虚しさ感動は請け合います。
ちなみにエンディング曲'La mer'の英題は'Beyond the Sea'なんですが、'Beyond thou See'つまり「一見しただけでは解らない」というサインと取るのは考えすぎでしょうか(笑)
La Mer
16 May 2014
「泣ける映画」という基準
履歴書の趣味欄に「読書」と書いたり、自己紹介で「映画が好き」と言ったりするのに抵抗を感じてしまう。好きなものを正直に「好き」ということの難しさ(個人的)、もあるのだけど、「フィクション」が往々にして現実に対するアンチテーゼになりえて、読書家やシネフィルを自称する人の中にその武器を持つことで優越感に浸る者がいること、も関係すると思う。
本や映画は虚構の世界への逃亡というだけではなく、それに乗っかって他者を上から見下ろしている連中がいるわけ。いけすかない連中だと思う。と、思う時点で自分もその土俵に登っているのだけれど。下らないですね(笑)
なので、今日はそれを括弧に入れて保留した上で創作物の話をしようと思います。
タイトルにも書いた「泣ける映画」。僕はこの「泣ける映画」というフレーズに違和感があるわけです。勿論、映画に限らず小説でも音楽でも、なんでも。最近、試写会のお客さんが「泣いちゃいました~(><)」ってコメントしてる映画のCMよくありますよね。
これだけ宣伝文句に「泣ける○○」と書かれちゃうと、まるで「泣ける」ことが「良い作品」の条件になっているかのようです。少なくとも広告の世界では。
そして、映画に限らず「泣ける映画」や「泣ける小説」が流れ作業でどんどんと量産されていく。
でも、この「泣ける / 泣けない」の物差しって、実はとってもチープじゃないですか?(頷いてくれ笑)
確かに、人の心を揺るがすような素晴らしい作品は沢山あります。
でも、それは「泣けるから素晴らしい」のではないと思う。作者は何かしらの影響(あえてメッセージとは言いません)を受け手に与えようと作品を作るわけで、受け手の心が何かしら動くのは当たり前といえば当たり前なんですね。
影響という言葉を使ったのは作者の考えが常に意識的で言語化されているわけではありませんし、そもそもメッセージというように語る言葉があるのならば、わざわざ作品という形にまで昇華しないでしょうから。
「感動」をチマチマ分析するのは下品だと思うので端的に書きますが、「創作物を通して作者の人間性に触れること」が人の心の琴線に触れるのではないかと個人的には考えています。臭いけど。
作品の中に「作者の他者としての人間性」があるからこそ、自分との相違点が見えて自己確認にもなって面白いわけだし、作者の優しさや悲しみや喜びに、もしくは怒りに横っつらを叩かれるような感覚になるわけです。
裏返して言えば、「作品の中に他者を見つける」とは同時に「私を得ること」であり「私がニュートラルな存在ではなくなること」を意味します。これはまた、作者が作品の宛先に他者を見出す行為と似ています。
宛先があることで、作者は自分を得て、中立的ではない作者自身の世界を描きだすことができる。
よく「世界観」なんて言葉がよく使われますが、そういう意味では遍く全ての作品に作者のエクリチュールというか歪んだ世界が投影されているわけですね。
古典的ですが、そうした歪んだ作品世界を、また私達は歪んだレンズを通して受容するわけなので、両者にはディープで渡ることのできない川があるのです。
どうでしょう?これってコミュニケーションそのものじゃないですか。以前もコミュニケーションについて書きましたが(こちら)、また(笑)。余談ですが"communicate"の語源の"communio"は「共有し分かち合うほど親しい」という意味でしたが、そのうちに三位一体思想や聖徒(地上、天国、煉獄)の交わりを意味するようになりました。
決して渡ることのできない、渡ってはいけない川の向こう側に呼びかけることで、向こう側から呼びかけられることで、私達は世界の欠片から「私」になる。
「コミュニケーション」という言葉が宗教的概念から誕生したのは、コミュニケーション自体に神秘性があるから、というのは今僕が考えました(笑)
が、我々が「共有できる」のは、実はその原初的な感動だけなのでは、なんて気もします。
さて、「泣ける」という言葉からは、「いかに自分が気持ちよくなれるか」という自閉的な印象が伝が伝わってきます。
映画や小説を自分が気持ちよくなる為の道具として考えているのなら、それは不遜な考えじゃなかですか?ばってん、他人をして「使える/使えない」などと評する人と同様の傲慢さだと思います。
何より、人間が創作物というコミュニケーションから本来の神々しさを感じなくなるとしたら、私達はどうなるのでしょう?
2 April 2014
Blackbird
夜中までピーチクパーチクやってた君も
そろそろ、その小さな羽でも飛ばなきゃいけないよ
何より、君もずっと今日という日を待っていたのだから
新らしい生活をはじめる皆さん、あんまり無理はしないように。
27 March 2014
31 January 2014
顔について(Are you talking to me?)
ユダヤ系フランス人のレヴィナスは「顔」について言及した現象学の大家である。なんつって、この難解難渋で知られる現代思想家を果たしてド低能の僕が理解できているか、というと丸っきり自信がないのだけど。まぁなんとなく解る(つもりの)範囲で氏が語った「顔」とコミュニケーションについて、自分なりに思うことを書いてみたい。
本名エマニュエル・レヴィナス、はリトアニア生まれのユダヤ人(国籍はフランス)でホロコーストのサバイバー。何をしたかって、簡単に言うとハイデカーやフッサールらに現象学を学んで、続く実存主義にも影響を与えた人物です。
自慢することじゃありませんが、僕は現代思想というやつに膝が笑うほどビビってるので大抵は概説書を齧って終わらせています。言語学にしても人類学にしても、どうしたって「現代思想」の影がチラつくので知っておきたいのですが、時間と気力を費やして果たして自分の能力でどれほどのものが得られるものがあるのか自信がないのです。
そんなヘタレ生半可なわけですが、このレヴィナスは概説書ですら一読しただけでは「何が何だかサッパリ意味不明」です(汗)
じゃあ知ったかぶるなと思われるでしょうが、それもまた快楽じゃないでしょうか。
じゃ早速、レヴィナスが「顔」について述べているセンテンスを内田樹氏の『レヴィナスと愛の現象学』から引用します。
「メッセージとしてのメッセージはそれに対して耳を塞ぐことのできないものへ、意味の意味へ、他の人間の顔への聴き取りを覚醒させる。目覚めとはまさに他者の近接性である。」
難しい、、、けど、内田氏の手引きを読みながら僕なりの解釈を交えて書き下してみます。
「コミュニケーションの中で我々は常に『問いかけ』られる。そして、その『問いかけ』からは逃れることができない。『問いかけ』は『問いかけ』ということ自体に意味がある。というのは『問いかけ』は『他者の存在』を不意に思い起こさせるからだ。」
・・・ということではないでしょうか。「他者の存在」についてレヴィナスが「顔」というシンボリックな表現を用いているのが今回のキモといたします。
では、他者とはなにか?
ここは一つ反対に「自己」について少し考えてみましょう。
誰しも一度くらいは「私は一体何者であるか」と考えたことがあるのではないでしょうか?
そしてデカルト的に「私の存在は私によってのみ認識される」しかし「私には私が何者かを証明できない」という堂々巡りがあって、結局「でも、まぁとりあえず私は存在する」と結論を保留することになる。保留しないと鏡に話しかけるデ二ーロみたいになってしまう。なんかラカン的ではありますね。
しかし、その名前も肩書きも性格も長所も短所も「私を表わすものではない」という前提というのは実は重要です。ドライな考え方ですが、私達の名前は「その人間を表わすもの」として誰かがつけた恣意的な記号でしかありません。
本名エマニュエル・レヴィナス、はリトアニア生まれのユダヤ人(国籍はフランス)でホロコーストのサバイバー。何をしたかって、簡単に言うとハイデカーやフッサールらに現象学を学んで、続く実存主義にも影響を与えた人物です。
自慢することじゃありませんが、僕は現代思想というやつに膝が笑うほどビビってるので大抵は概説書を齧って終わらせています。言語学にしても人類学にしても、どうしたって「現代思想」の影がチラつくので知っておきたいのですが、時間と気力を費やして果たして自分の能力でどれほどのものが得られるものがあるのか自信がないのです。
そんなヘタレ生半可なわけですが、このレヴィナスは概説書ですら一読しただけでは「何が何だかサッパリ意味不明」です(汗)
じゃあ知ったかぶるなと思われるでしょうが、それもまた快楽じゃないでしょうか。
じゃ早速、レヴィナスが「顔」について述べているセンテンスを内田樹氏の『レヴィナスと愛の現象学』から引用します。
「メッセージとしてのメッセージはそれに対して耳を塞ぐことのできないものへ、意味の意味へ、他の人間の顔への聴き取りを覚醒させる。目覚めとはまさに他者の近接性である。」
難しい、、、けど、内田氏の手引きを読みながら僕なりの解釈を交えて書き下してみます。
「コミュニケーションの中で我々は常に『問いかけ』られる。そして、その『問いかけ』からは逃れることができない。『問いかけ』は『問いかけ』ということ自体に意味がある。というのは『問いかけ』は『他者の存在』を不意に思い起こさせるからだ。」
・・・ということではないでしょうか。「他者の存在」についてレヴィナスが「顔」というシンボリックな表現を用いているのが今回のキモといたします。
では、他者とはなにか?
ここは一つ反対に「自己」について少し考えてみましょう。
誰しも一度くらいは「私は一体何者であるか」と考えたことがあるのではないでしょうか?
そしてデカルト的に「私の存在は私によってのみ認識される」しかし「私には私が何者かを証明できない」という堂々巡りがあって、結局「でも、まぁとりあえず私は存在する」と結論を保留することになる。保留しないと鏡に話しかけるデ二ーロみたいになってしまう。なんかラカン的ではありますね。
しかし、その名前も肩書きも性格も長所も短所も「私を表わすものではない」という前提というのは実は重要です。ドライな考え方ですが、私達の名前は「その人間を表わすもの」として誰かがつけた恣意的な記号でしかありません。
この図を大学で見たことがある方も多いでしょう。「リンゴ」を思い浮かべて頂ければ解ると思いますが、「リンゴがリンゴたる由縁」というのは「リンゴ」という名前でもなく「リンゴの味」でもなく「リンゴの色」でもない。「リンゴの存在によってのみリンゴはリンゴたりえる」わけです。つまり私達もリンゴも存在することによって"存在"が内的に示される。
では「他者の存在」についてレヴィナスが「顔」という表現を用いたのは何故か。
それは「顔が人間の原初的なコミュニケーションだから」ではないでしょうか。
読者が自覚しているは解りませんが、例えば誰かに電話をかけるときに感じる緊張、インターネットへの根源的な恐怖というのは「顔が見えない怖さ」であると思うのです。
「私はちょっと違うかなー」と思う方も、それじゃあ顔も知らない相手を信頼することができるでしょうか。そういえば、旧約聖書の『ヨブ記』は、それを逆手にとって「神という姿の見えない対象」のが信仰を量る試金石として活用されていたりしますね。
我々がこれほどまでに「顔」に拘るのも、おそらく我々の祖先が記号を発明する以前から「顔」によってコミュニケーションをとっていたからなのでしょう。だからこそ「顔」は「その人の名前(=意味するもの、シニフィアン)」から独立して存在するのであり、尚且つ「他者性」を帯びる、というわけです。
また、レヴィナスは他者に関連してコミュニケーションのについて語る。
『語ること』は確かにコミュニケーションである。ただし、これはあらゆるコミュニケーションの、曝露としてのコミュニケーションの条件をなすコミュニケーションなのである。
曝露としてのコミュニケーションとは、つまり「顔」を相手に晒す行為であると考えます。
「語ること」は「単に情報を伝える」だけではなく、「相手の存在を認める(=他者性の発露)」ということを包含しているのです。
私があなたに「こんにちは」という時、私はあなたを認識するより先に、あなたを祝福していたのです。私はあなたの日々を気遣っていたのです。私は単なる認識を越えたところで、あなたの人生のうちに入りこんだのです。
挨拶は「単なる情報伝達の誘い水」ではありません。「あなたを認識するよりも先に」というのは、もしかしたら「あなたが敵」である可能性を含んでいますが、そのリスクを冒しても急所を晒し「あなたを祝福する」ということ。これは子供の誕生を祝福する行為に良く似ています。可愛いガキんちょも、将来どんな大人になるか解らない。にもかかわらず、その誕生は祝福で迎えられなければならない。
とすれば、曝露としてのコミュニケーション(=語りかけること)は「小さな再生」を意味すると考えることもできる。我々は「語ること≒挨拶」を通して、存在が認められ、祝福され、そしてこの世界にまた生まれ変わるのです。
寡聞な私は挨拶を持たない文化というものを知りませんが、挨拶とは愛らしい行為ではないでしょうか。
20 January 2014
RIDGE RUNNER
久しぶりに自転車の話題。
かねてから、レストアを試みていたミヤタのリッジランナーの再生記録です!
フレーム自体は80年代後半~90年代初頭のもの、つまり20年以上も前に作られたものです。
当時、MTBブームが日本を席巻していたようで、流行に釣られてオヤジが買ったものらしい。
結局、オフロードは殆ど走らなかったのではないだろうか。20年もの間、屋外保管だったのでチェーンは勿論、クランクもスプロケットもホイールも錆び錆びでコンポもホイールも総入れ替えです。根性で錆びを落としてオリジナルのパーツを使っても良かったかな?
フレームは白いアルミ錆びが少し浮く程度で済んでいたのが幸いでした。
パーツは意味も無くDeoreグレードで揃えたので、思いのほか費用がかかってしまいました。自転車とは、なんと罪な趣味よ。
ロードに乗ると「もっと速く漕がなくては!」と気持ちが急いてしまうのだけど、MTBなら緩く走ってても別にOK。フレームは見るからに質実剛健で、ちょっとやそっとじゃ壊れなさそうだ。
ダボ穴もあるし、もう少し漕ぎだしが軽ければ、キャンプツーリングや夢の海外輪行に使ってみたい気になるんだけどなぁ。
こうして見ると、フルリジッドでスリックタイヤを履かせているせいかクロスバイクのような雰囲気です。でも、スレッドステムとかゴツいクロモリフォークとかラグ接続のアルミフレームとか所々に懐かしいMTBの面影もチラつかせてます。「カッコイイ」とは少し違うけれど、「味がある」ように思います。(自画自賛)
"RIDGE RUNNER"のステッカータグはボロボロになっていたので全て剥がして、ピカールで磨きこみました。アルミの質感がでて、これはこれで好き。(自画自s)
元々カンチブレーキでしたが、現在ではMTB向けのカンチ製品って殆どありません。Vブレーキは安い完成車についてるイメージで好きではなかったのですが、よくよく考えた末にVに換装。やっぱりカンチと比べて良く効くし断然調整がし易い。こりゃいいですね。
フォークやサドルの差し色が黄緑なので鍵やライトの色も合わせて、少しチャラく(笑)
knogのライトはロードでも使ってるけど、かわいいなぁ。
タイヤはシュワルベのマラソン。腐っても鯛、これでも一世を風靡した名作MTBなのでブロックタイヤ を履かせたいところでしたが、わざわざオフロードに行かないしなぁ…と迷って結局スリックに。
ペダルは自転車屋のジャンク品箱に入ってた100円のやつ。
今回苦労した点はヘッドパーツのベアリングが死んでいたことと、クランクが固着していたこと。スポーツバイクにおいては、スレッドステム自体がもはや絶滅危惧種になっていて同じ規格のものがなかなか見つからないのです。なんと、駄目もとで入ったシティサイクル専門店で同じものを発見。商品ではなかったのですが100円で分けていただきました。
クランクは素人の手には余ったのでショップで対処して頂きました。店主もかなり苦労されたようですが「懐かしいし、こんなの無料で良いよ」とのこと^^;
どちらも20年の年月を感じさせる出来事でした(笑) お世話になった自転車屋さんには感謝ですね。
さて、今後は、
・ブロックタイヤへの履き替え
・ペダルをMTB用のものへ(グリーンを希望w
・本格的な山道は無理でも軽いオフロードで遊べる仕様に
・次の20年も乗れるように定期的にメンテナンスを行う笑
などなどを目標にいじっていこうと思います。
11 January 2014
気になるラヂヲはBBC(フェミニズムについて)
果たして効果があるのか解らないが、英語の勉強だと思って数年前からブラウザのホームをBBCのトップページにしている。検索エンジンではないので多少不便だが、個人的に興味のある中東や欧州のニュースなんかが日本語メディアよりも少しだけ早く読めるというメリットもある。
たまに日本のニュースがトップになることがあるが、BBCで報道されるようなものは既に日本でも大きく報道されているのでそんなに驚くことはない。大きな選挙や汚染水問題は定期的にトップになるし、最近だとオリンピック招致や山本太郎が園遊会で天皇に手紙を渡したニュースなんかが報道されていた。
ところが、私が寡聞なだけかもしらんが聞いたこともない日本のニュースがBBCに登場した。
「スプツニコって誰だよ」って思ったらMITの助教さんだったようで笑
調べてみると、主戦場はツイッターのようで、そこでMITで教鞭をとる美人芸術教師が人工知能学会の表紙をめぐってオタク達と喧々諤々とやりあっているのである。すごい眺めである。
彼女のツイッターのアカウントを覗くと、タイミング良くご自身で問題の纏めをしていらっしゃったので引用させてもらいます。
引用させてもらって不躾だけど、私は素直に全てを納得することができない。
例えば③であるが、「反抗的なロボット」を作ろうとする人間がいたとして、わざわざそんな人に基準を置く必要があるのだろうか?または「だったら男性をモチーフにしたロボットも同様に問題提起してるの?」と思うのは不自然だろうか。
んで⑤~⑧はMITのセンセー相手に恐縮だけど、それ「外国被れ」というやつじゃ…(笑)
筆者は大学生のころに、フェミニズムの講義をとっていたことがある。当時は正義に燃える純真な心が残っていたので「性差別なんて不公平はイカン!」と強く思っていたのね。そのときに、フェミニズム関連の本を数冊読んだのだけどウンコがちびるほどビビった記憶がある。(で、数冊でやめた笑)
ジェンダーロールの呪縛は確かに正しいと思えるものであるし、事実私の女性観もかなり変容したことは認めなくてはならない。しかし、中には欧米的な進歩主義と結びついて例えば「イスラームのブルカは女性差別の象徴だから禁止しろ」というようなものも良く目にした。(新イスラームのフェミニストも多くいたが、当時フランスでブルカ禁止法が成立した直後であり、そのようなモダニスト的主張が目立っていた。)
他にも「女嫌いはミソジニー、女好きもミソジニー、だって男は全てミソジニー」ってな主張や、ラディフェミを名乗る女友達が「私は私を邪魔するものが許せないからフェミニストなの!」なんて言うのを聞いて二十歳のボクはすっかり幻滅したのだった。(彼女達がオチンチンついてる人を糾弾すんのは勝手だけど、ミサンドリーが前提となり糾弾が目的化したステージにおいては、男は隷属or差別主義者しか選択肢がない)
大学を卒業した後、ホテルや式場で配膳の仕事をしていたことがある。ユニフォームは男性が蝶ネクタイにブレザー、女性はメイド服が基本なんだけど、果たして仕事にプライドをもつ彼女達からメイド服を脱がせることが女性の解放だろうか。イスラームの女性から伝統衣装であるブルカやスカーフを奪い去ることが「進歩的」なのだろうか。
だからスプツニコさん。「学会誌名乗るなら欧米の価値観に従えや」って、やっぱりおかしいと思う。学問をそれほどまでにローカルなものにするのは、むしろ学問への反駁ではないだろうか。
①、②についてはそういう見方があることには同意するけど、「ステレオタイプの恣意性=暴力」か否かについては議論があるとこだろう。
実際、恣意性や方向性の力をすべて消そうとしたら、あまねく言語は消滅することになる。(そういえば「言語の誕生以前にジェンダーは存在しない」なんてのもあったなぁ…)
言うまでもなく女性も言葉を使っているのだけど、「言葉は男性的なものであり、女性はそれを借りているにすぎない」という。つまり「元々男が言葉を作ったのだから、女性は女性としての視点を持たない。故に女性が発する恣意性の暴力は男の責任である」ということらしい笑
こういうのを見ていると、フェミニズムが許す範囲の表現や言語って、オーウェルの世界になる気が。まぁ、恣意性を完全に排した世界では「ニュースピーク」すら永遠に成立しないわけだが笑
話がそれたけど、言語や表現に「誰かを傷つける恣意性」を見出すかどうかはかなり個人差がある。故に「大多数の考え」を摺り合わしたものが「適切な表現=常識」のラインになるわけで、それは慎重に議論しなければならない。(思うに我々はそれを怠りすぎている)
少なくとも私は上記のように「女の子の形したロボットが掃除しているイラストがジェンダーロールの強迫観念を引き起こす差別的なものだ」って主張には容易に頷けないし、ましてや人工知能学会が男女平等に仇名す敵だとはとても思えない。わざわざ四方八方に喧嘩売らずに、糾弾と告発の語法を捨てて、共存の道を探しては?なんて思うんだけど。
たまに日本のニュースがトップになることがあるが、BBCで報道されるようなものは既に日本でも大きく報道されているのでそんなに驚くことはない。大きな選挙や汚染水問題は定期的にトップになるし、最近だとオリンピック招致や山本太郎が園遊会で天皇に手紙を渡したニュースなんかが報道されていた。
ところが、私が寡聞なだけかもしらんが聞いたこともない日本のニュースがBBCに登場した。
私のように何のことかサッパリという人のために記事を要約したい。
人工知能学会という学会の会報の表紙が公募により、ある女性作家のイラスト(上記)になった。
「人工知能がいかに日常生活に影響しうるか」を表現したものというが、同じく芸術家のスプツニ子!は「グローバルなジェンダー感覚が足りんわ~、もしアメリカの学会誌がこれをやったら大変なことになるで?」と言う。 学術界もソーシャルネットユーザーも、この会報は相応しくないと考えているようだ。大阪大学教授の平川秀幸は「科学誌にこの表紙は不適切なんじゃない?」と朝日シュンブン(笑)に語る。 人工知能学会会報の編集部局長は「公募の中で、会員のいっちゃん人気がコレだったの!」と述べている。 |
「スプツニコって誰だよ」って思ったらMITの助教さんだったようで笑
調べてみると、主戦場はツイッターのようで、そこでMITで教鞭をとる美人芸術教師が人工知能学会の表紙をめぐってオタク達と喧々諤々とやりあっているのである。すごい眺めである。
彼女のツイッターのアカウントを覗くと、タイミング良くご自身で問題の纏めをしていらっしゃったので引用させてもらいます。
引用させてもらって不躾だけど、私は素直に全てを納得することができない。
例えば③であるが、「反抗的なロボット」を作ろうとする人間がいたとして、わざわざそんな人に基準を置く必要があるのだろうか?または「だったら男性をモチーフにしたロボットも同様に問題提起してるの?」と思うのは不自然だろうか。
んで⑤~⑧はMITのセンセー相手に恐縮だけど、それ「外国被れ」というやつじゃ…(笑)
筆者は大学生のころに、フェミニズムの講義をとっていたことがある。当時は
ジェンダーロールの呪縛は確かに正しいと思えるものであるし、事実私の女性観もかなり変容したことは認めなくてはならない。しかし、中には欧米的な進歩主義と結びついて例えば「イスラームのブルカは女性差別の象徴だから禁止しろ」というようなものも良く目にした。(新イスラームのフェミニストも多くいたが、当時フランスでブルカ禁止法が成立した直後であり、そのようなモダニスト的主張が目立っていた。)
他にも「女嫌いはミソジニー、女好きもミソジニー、だって男は全てミソジニー」ってな主張や、ラディフェミを名乗る女友達が「私は私を邪魔するものが許せないからフェミニストなの!」なんて言うのを聞いて二十歳のボクはすっかり幻滅したのだった。(彼女達がオチンチンついてる人を糾弾すんのは勝手だけど、ミサンドリーが前提となり糾弾が目的化したステージにおいては、男は隷属or差別主義者しか選択肢がない)
大学を卒業した後、ホテルや式場で配膳の仕事をしていたことがある。ユニフォームは男性が蝶ネクタイにブレザー、女性はメイド服が基本なんだけど、果たして仕事にプライドをもつ彼女達からメイド服を脱がせることが女性の解放だろうか。イスラームの女性から伝統衣装であるブルカやスカーフを奪い去ることが「進歩的」なのだろうか。
だからスプツニコさん。「学会誌名乗るなら欧米の価値観に従えや」って、やっぱりおかしいと思う。学問をそれほどまでにローカルなものにするのは、むしろ学問への反駁ではないだろうか。
①、②についてはそういう見方があることには同意するけど、「ステレオタイプの恣意性=暴力」か否かについては議論があるとこだろう。
実際、恣意性や方向性の力をすべて消そうとしたら、あまねく言語は消滅することになる。(そういえば「言語の誕生以前にジェンダーは存在しない」なんてのもあったなぁ…)
言うまでもなく女性も言葉を使っているのだけど、「言葉は男性的なものであり、女性はそれを借りているにすぎない」という。つまり「元々男が言葉を作ったのだから、女性は女性としての視点を持たない。故に女性が発する恣意性の暴力は男の責任である」ということらしい笑
こういうのを見ていると、フェミニズムが許す範囲の表現や言語って、オーウェルの世界になる気が。まぁ、恣意性を完全に排した世界では「ニュースピーク」すら永遠に成立しないわけだが笑
話がそれたけど、言語や表現に「誰かを傷つける恣意性」を見出すかどうかはかなり個人差がある。故に「大多数の考え」を摺り合わしたものが「適切な表現=常識」のラインになるわけで、それは慎重に議論しなければならない。(思うに我々はそれを怠りすぎている)
少なくとも私は上記のように「女の子の形したロボットが掃除しているイラストがジェンダーロールの強迫観念を引き起こす差別的なものだ」って主張には容易に頷けないし、ましてや人工知能学会が男女平等に仇名す敵だとはとても思えない。わざわざ四方八方に喧嘩売らずに、糾弾と告発の語法を捨てて、共存の道を探しては?なんて思うんだけど。
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