16 May 2014

「泣ける映画」という基準

履歴書の趣味欄に「読書」と書いたり、自己紹介で「映画が好き」と言ったりするのに抵抗を感じてしまう。好きなものを正直に「好き」ということの難しさ(個人的)、もあるのだけど、「フィクション」が往々にして現実に対するアンチテーゼになりえて、読書家やシネフィルを自称する人の中にその武器を持つことで優越感に浸る者がいること、も関係すると思う。
本や映画は虚構の世界への逃亡というだけではなく、それに乗っかって他者を上から見下ろしている連中がいるわけ。いけすかない連中だと思う。と、思う時点で自分もその土俵に登っているのだけれど。下らないですね(笑)

なので、今日はそれを括弧に入れて保留した上で創作物の話をしようと思います。

タイトルにも書いた「泣ける映画」。僕はこの「泣ける映画」というフレーズに違和感があるわけです。勿論、映画に限らず小説でも音楽でも、なんでも。最近、試写会のお客さんが「泣いちゃいました~(><)」ってコメントしてる映画のCMよくありますよね。
これだけ宣伝文句に「泣ける○○」と書かれちゃうと、まるで「泣ける」ことが「良い作品」の条件になっているかのようです。少なくとも広告の世界では。

そして、映画に限らず「泣ける映画」や「泣ける小説」が流れ作業でどんどんと量産されていく。
でも、この「泣ける / 泣けない」の物差しって、実はとってもチープじゃないですか?(頷いてくれ笑)

確かに、人の心を揺るがすような素晴らしい作品は沢山あります。
でも、それは「泣けるから素晴らしい」のではないと思う。作者は何かしらの影響(あえてメッセージとは言いません)を受け手に与えようと作品を作るわけで、受け手の心が何かしら動くのは当たり前といえば当たり前なんですね。
影響という言葉を使ったのは作者の考えが常に意識的で言語化されているわけではありませんし、そもそもメッセージというように語る言葉があるのならば、わざわざ作品という形にまで昇華しないでしょうから。


「感動」をチマチマ分析するのは下品だと思うので端的に書きますが、「創作物を通して作者の人間性に触れること」が人の心の琴線に触れるのではないかと個人的には考えています。臭いけど。
作品の中に「作者の他者としての人間性」があるからこそ、自分との相違点が見えて自己確認にもなって面白いわけだし、作者の優しさや悲しみや喜びに、もしくは怒りに横っつらを叩かれるような感覚になるわけです。

裏返して言えば、「作品の中に他者を見つける」とは同時に「私を得ること」であり「私がニュートラルな存在ではなくなること」を意味します。これはまた、作者が作品の宛先に他者を見出す行為と似ています。
宛先があることで、作者は自分を得て、中立的ではない作者自身の世界を描きだすことができる。
よく「世界観」なんて言葉がよく使われますが、そういう意味では遍く全ての作品に作者のエクリチュールというか歪んだ世界が投影されているわけですね。
古典的ですが、そうした歪んだ作品世界を、また私達は歪んだレンズを通して受容するわけなので、両者にはディープで渡ることのできない川があるのです。

どうでしょう?これってコミュニケーションそのものじゃないですか。以前もコミュニケーションについて書きましたが(こちら)、また(笑)。余談ですが"communicate"の語源の"communio"は「共有し分かち合うほど親しい」という意味でしたが、そのうちに三位一体思想や聖徒(地上、天国、煉獄)の交わりを意味するようになりました。
決して渡ることのできない、渡ってはいけない川の向こう側に呼びかけることで、向こう側から呼びかけられることで、私達は世界の欠片から「私」になる。
「コミュニケーション」という言葉が宗教的概念から誕生したのは、コミュニケーション自体に神秘性があるから、というのは今僕が考えました(笑)
が、我々が「共有できる」のは、実はその原初的な感動だけなのでは、なんて気もします。

さて、「泣ける」という言葉からは、「いかに自分が気持ちよくなれるか」という自閉的な印象が伝が伝わってきます。
映画や小説を自分が気持ちよくなる為の道具として考えているのなら、それは不遜な考えじゃなかですか?ばってん、他人をして「使える/使えない」などと評する人と同様の傲慢さだと思います。
何より、人間が創作物というコミュニケーションから本来の神々しさを感じなくなるとしたら、私達はどうなるのでしょう?

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