スティーブン・ピンカー著
原題はTHE LANGUAGE INSTINCT How the Mind Creates Language
(リンクは上巻のみ)
言語学関係の書籍としては一時期異例の人気を博した本書。読んでみれば、なぜブームになったのか理解できる。レベル的には、大学の眠くて仕方がない言語学の概説講座で扱われるような内容であるが、「よくある身近な例文」と
一口に「言語学」といっても、その分野は様々である。音韻論、音声学、意味論、語用論、形態論、そして難解な統語論(生成文法)と認知言語学についての位置関係も掴みやすい。外国語学習をする際には「母語との違い」ばかりが気になるが、凡そ人間の言語にこれほどの共通点がある、と知るのは新鮮な驚きである。また、それらの解説が「どのように人間は言語を生み出しているのか」という本書のテーマである問いに有機的に繋がっていく様は、まるでミステリー小説を読んでいるかのようだ。大袈裟だが学問の快楽とはこういうものだろう。
さて、褒めるのもそこそこに笑
著者はサピア=ウォーフの仮説(本書では言語決定論)やジョージ・オーウェルの『1984』に登場する「ニュー・スピーク」などを固く撥ねつけている。
言語相対論は簡潔にいえば人類学で提唱された理論であり「人間は母語を通して外界を認識する」というものである。オーウェルのニュースピークは「思考を制限するために作られた人工言語」というフィクションである。
スティーブン・ピンカーの言語本能説の立場からは、そのような説(?)を認めるわけにはいかない。例えば古代日本語はblueもgreenも「アヲ」と表現したし現在でもその境界は曖昧であるが、上代の日本語話者がそれらを見分けられなかったわけではない。つまり「例え何語の話者であろうとも、知覚する世界が違うわけではない」という考え方になる。
ピンカーはサピア=ウォーフ仮説を批判するのに大袈裟な例や言語相対仮説の失敗した実験例や根拠薄弱な例ばかりを引用しているが、そもそもこの仮説には「言語が知覚の様式を決定する」とする強い仮説と「言語が知覚に影響を及ぼす」とする弱い仮説の2種類が存在していて、現在の主流は弱い仮説であるので極端なものばかりを論じても仕方がないのだ。
当のサピアもウォーフも言語と認識の関係については「必然ではない」と述べているわけだしね。
必要ないかもしれないが、ここで私の愚考を披露すると、言語には本能的側面と文化的側面があり、両者はメビウスの輪の表裏のように分かち難く結びついていると考える。
異文化に接したことがあれば異なる行動、規範、価値観といったものを感じる人が多いだろうが、文化はときに人間の生理現象にまで影響する。言語は文化と密接に結びつき、ときに言語と文化が表裏一体であるが故に「言語が知覚に影響を及ぼす」のである。
言語から文化を引き算するのは困難であるので、些か妥協的だが、我々の思考や知覚、経験は「考えられている程には言語には縛られていない」と言えるかもしれない。しかし、「全く縛られていない」とするのはやはり無理があると感じる。