21 September 2013

『言語を生み出す本能』




スティーブン・ピンカー著
原題はTHE LANGUAGE INSTINCT  How the Mind Creates Language
(リンクは上巻のみ)

言語学関係の書籍としては一時期異例の人気を博した本書。読んでみれば、なぜブームになったのか理解できる。レベル的には、大学の眠くて仕方がない言語学の概説講座で扱われるような内容であるが、「よくある身近な例文」とスベり気味のユーモアを駆使することで読者を無理なく言語学の世界に近付けてくれるのだ。例文については、アメリカ、もしくは英語圏の人間のみを対照にしている嫌いもあるが、訳者の腕が良く解りにくさは感じない。

一口に「言語学」といっても、その分野は様々である。音韻論、音声学、意味論、語用論、形態論、そして難解な統語論(生成文法)と認知言語学についての位置関係も掴みやすい。外国語学習をする際には「母語との違い」ばかりが気になるが、凡そ人間の言語にこれほどの共通点がある、と知るのは新鮮な驚きである。また、それらの解説が「どのように人間は言語を生み出しているのか」という本書のテーマである問いに有機的に繋がっていく様は、まるでミステリー小説を読んでいるかのようだ。大袈裟だが学問の快楽とはこういうものだろう。

さて、褒めるのもそこそこに笑
著者はサピア=ウォーフの仮説(本書では言語決定論)やジョージ・オーウェルの『1984』に登場する「ニュー・スピーク」などを固く撥ねつけている。
言語相対論は簡潔にいえば人類学で提唱された理論であり「人間は母語を通して外界を認識する」というものである。オーウェルのニュースピークは「思考を制限するために作られた人工言語」というフィクションである。

スティーブン・ピンカーの言語本能説の立場からは、そのような説(?)を認めるわけにはいかない。例えば古代日本語はblueもgreenも「アヲ」と表現したし現在でもその境界は曖昧であるが、上代の日本語話者がそれらを見分けられなかったわけではない。つまり「例え何語の話者であろうとも、知覚する世界が違うわけではない」という考え方になる。

ピンカーはサピア=ウォーフ仮説を批判するのに大袈裟な例や言語相対仮説の失敗した実験例や根拠薄弱な例ばかりを引用しているが、そもそもこの仮説には「言語が知覚の様式を決定する」とする強い仮説と「言語が知覚に影響を及ぼす」とする弱い仮説の2種類が存在していて、現在の主流は弱い仮説であるので極端なものばかりを論じても仕方がないのだ。
当のサピアもウォーフも言語と認識の関係については「必然ではない」と述べているわけだしね。

必要ないかもしれないが、ここで私の愚考を披露すると、言語には本能的側面と文化的側面があり、両者はメビウスの輪の表裏のように分かち難く結びついていると考える。
異文化に接したことがあれば異なる行動、規範、価値観といったものを感じる人が多いだろうが、文化はときに人間の生理現象にまで影響する。言語は文化と密接に結びつき、ときに言語と文化が表裏一体であるが故に「言語が知覚に影響を及ぼす」のである。
言語から文化を引き算するのは困難であるので、些か妥協的だが、我々の思考や知覚、経験は「考えられている程には言語には縛られていない」と言えるかもしれない。しかし、「全く縛られていない」とするのはやはり無理があると感じる。

20 September 2013

発達と学習

このレポートでは、知能と学力の関係について述べたい。まず、知能と学力それぞれを定義し明確にした上でそれぞれにどのような関係性があるのかを考える。「知能」はこれまで多くの先人たちによって様々な定義がなされてきた。普段、我々が使う意味では、他人が思いつかないような発想で物事を解決・向上させる能力や、暗記する能力などに用いることが多い。現在のところ知能の定義は数多くあり、そのどれも決定的とは言えないため、確立はされていない。例えば、心理学の分野では大まかに、抽象的な思考能力、環境への適応能力、学習する能力と考えられている。しかしまがら、このレポートでは知能を明確に数値化して考える必要があるため、ボーリングによる「知能とは知能テストにより測定された能力である」という定義を用いる。

 知能を測るための知能測定は様々な形式が作られ、また改良されてきた。知能検査にはおおまかに集団式と個別式がありそれぞれに長所と短所がある。集団式は簡便であり一度に多人数を検査することができる反面、環境による信頼性に疑問も残る。個別式の知能検査には、ビネー式とその改良型である鈴木ビネー式や田中ビネー式、そしてウェクスラー式といったものがあり、本レポートでは主にこちらの個別式について述べたい。

 ビネー式は1905年に原型つくられ、その後の改訂を経て世界に普及した知能検査である。同年齢集団の3/4が正答する問題をその年齢の基準とし、知能年齢と実際の年齢の関係から知能指数を割り出している。知能指数の式は次の通りである。

知能指数(IQ)=精神年齢(MA)/生活年齢(CA)×100

また、この知能指数から知能偏差値(ISS)を求めることができる。知能偏差値とは、主に同じ年齢の集団内で特定の個人の知能がどの位置にあるかを示すものであり、その利点は後述する学力偏差値との比較が容易になるということや、母集団のばらつきがある場合でも相対的な位置が把握しやすいことが挙げられる。
☆知能偏差値(ISS)=10(個人の得点-集団の平均点)/集団の標準偏差+50
という式で知能偏差値は求められる。標準偏差は16とされている。

ウェクスラー式の知能検査は1939年にアメリカで開発され、以後改良や各国語への翻訳が行われた。ウェクスラー式の特徴は、言語性IQ、動作性IQ、全体のIQが算出できる点、対象年齢者によって検査を選択できる点、そして偏差知能指数(DIQ)を採用しているといったことである。(田中ビネー式においても乳児用のテストを採用している。)
偏差知能指数(DIQ)もやはり、集団内での個人の知能の位置を相対的に表すことができる。この場合、平均は100で計算される。

偏差知能指数=15×(個人の得点-同一年齢集団の平均点)/同一年齢集団の標準偏差+100

という式で表わされる。ウェクスラー式の標準偏差は15であり、知能偏差値への転換も容易である。
 
 次に学力について考えたい。学力の定義は知能以上に難しいが、一般的に学業成績など課題や科目を学習した到達度からみる能力と課題と科目を学習する能力の二つの側面があり、互いに密接に結びついている。また、それに加えて学ぶ意欲や主体的に問題を解決する能力など、内面性も含めるとする意見もある。この学力を測定するのに、学力検査がある。学力検査によって学習の成就度が測れ、延いては知能検査との比較が可能になる。ただし、学力検査の種類と評価の仕方は幾つもあるので注意が必要である。ここでは、個人の学力が全国でどの位置にあるか確認することができる全国標準学力検査を用いたい。学力検査の結果を偏差値に換算したものを学力偏差値という。知能偏差値が集団内で個人の知能の位置を示すように、学力偏差値によって集団内での個人の学力の位置を把握することができる。学力偏差値は次の式で求まる。
 
 学力偏差値=10×(個人の得点-集団の平均点)/集団の標準偏差+50

知能偏差値と学力偏差値がわかれば、知能と学力の関係を検討することができる。成就値(AS)や成就指数(AQ)とよばれるもので、それぞれ次の式で求めることができる。

 成就値(AS)=学力偏差値-知能偏差値
 成就指数(AQ)=学力偏差値/知能偏差値×100


成就値が正の場合は知能以上に学力が伸びていることを示し、負の場合はその逆になる。成就指数の場合は100を基準に同じことが言える。成就値が+7、成就指数が100を大きく上回る場合をオーバー・アチーバーという。反対に成就値が-7、成就指数が100を大きく下回る場合をアンダー・アチーバー(学業不振児)という。学業不振の要因は幾つもの可能性が考えられる。学習意欲やメンタルの問題、障害や知的能力の偏り、環境や教師の指導能力などであり、ときにそれらが絡み合っている。学業不振児は早期の原因の発見と適切な処置が必要である。

18 September 2013

現代教職論

 本レポートでは、1998年に改正された教育職員免許法の背景と、そこから、教師に何が期待されているのか、または教師として身につけておくべき資質と能力がどのようなものであるかについて考察を行う。

まず、教育職員免許法が改正された背景について述べたい。前述のように1998年に教育職員免許法が改正されたが、教育改革が行われるということは、社会が何らかの事情により教師と教育に変化を期待しているということである。つまり、社会が「悪化」もしくは「停滞」していると、社会を構成する人々が感じたとき、それを改善しようと次世代を担う子供たちと教育に託すのである。戦前であれば、1890年に発布された教育勅語にその理念が書いてある。その中には「★国家のための教育、国家のための教員という性格が強調」されている。ここでは善悪は置いておくが、近代国家を樹立したばかりの日本が、欧米諸国をモデルに近代的な国家観を拡げようとしている姿勢が見て取れる。戦後は、戦前の軍国主義や国家主義的な教育からの脱却と、自由・平等・民主主義を中心として人格の完成、個性の尊重、機会の均等を理念とした。また、終戦直後は学校施設と教員の欠乏と、それに伴い無資格教員が増大するという問題が起きた。無免許や専門外の教科では、授業の質の低下は免れない。そうして、本レポートで扱う「教育職員免許法」が施行されることになった。これらの例のように、教育は社会が目指すべき方向を指し示す、公共性が極めて高い機関といえる。

それでは、次に現在(1998)の日本が、教育改革を行わなければならない背景、つまり社会情勢について考える。明治期、または第二次大戦後のような大きな社会の転換ではないが、90年代の日本では、いじめや不登校、児童・生徒の自殺、学級崩壊など、それまで注目されなかった問題、それまでは起こらなかった問題が注目され始めた。これらの深刻な教育問題に対処することが、今回の教育職員免許法改正の狙いである。具体的には、高校第一種免許では、それまで「教科に関する科目」を40単位、「教職に関する科目」を19単位取得する必要があった。改正後の新カリキュラムでは「教科に関する科目」が20単位、「教職に関する科目」が23単位、その他に「教科又は教職に関する科目」が16単位となっている。改正前と改正後を比較すると、それぞれ合計では59単位と変らないが、「教科に関する科目」の比重を減らし、「教職に関する科目」を増やしていることが解る。高校第一種免許に限らず、幼稚園、小学校、中学校、どの免許区分においても、この傾向が認められる。一体、何を目的として、このような変更が行われたのだろうか。この改正に先立ち、1997年に教育職員養成審議会が文部大臣に提出した「新たな時代に向けた教員養成の改善方策について」の第1次答申を見てみたい。この答申は、「教職への志向と一体感の形成」「教職に必要な知識及び技能の形成」「教科等に関する専門知識及び技能の形成」を改正の中心に据え、いわゆる「教職教養」を重視している。「教科に関する科目」がほぼ半減され「教職に関する科目」がより重要視されているのは、この為である。教壇に立つ上で、その教科への専門性や技術といったものは、当然ことながら必要である。しかしながら、深刻な教育問題に直面している現在、教科以外の指導や、教育自体への理解が必要と考えられたからである。

これは次のことからも汲み取れる。新カリキュラムの中で「教職に関する科目」の比重が高まったことは既に述べたが、その枠組みも変更されている。それまでの「教育の目標及び本質に関する科目」は、「教育の基礎理論に関する科目」の中の「教育の理念、並びに教育に関する歴史及び思想」となっている。特定の科目の中で必要な事項を細分化して挙げている。また新カリキュラムには「教職の意義に関する科目」と「総合演習」が追加された。簡約にいえば、前者は「教師になること」ということについて深く考察することを目的とし、後者は「地球的視点に立ち、国社会全体に関わる課題を分析、検討できるようにする」というものである。その他の大きな変更点は、中学校の免許の場合、教育実習の期間が2週間から4週間に延長されたこと、介護等体験が必修とされたことである。

これまで、新カリキュラムの変更点を述べてきたが、ある一連性を見いだせる。それは、この複雑な現代社会の中で教壇に立つにあたり、今まで以上の幅広い教養と人間理解が必要だということである。また、そもそも教職課程というのは教員を目指す人間が踏まえておくべき課程であるが、様々な教育問題が叫ばれる現在、「現実的な教職がどういうものであるか」ということを理解し、それらの問題への解決能力を養うことを期待されているのだと、私は考える。

佐藤晴雄『教職概論』 学陽書房 改定版 2007
吉田辰雄・大森正『教職入門 教師への道』 図書文化 改訂2009

17 September 2013

日大通信レポート掲載について覚書

私は都内在住ながらスクーリングや勉強会、校友会活動にはあまり参加していないので、通信課程に在籍されている方々と顔を合わす機会というのが殆どない。
しかしながら、たまの説明会などに出席すると、通信課程で教員を目指されている方の人数に毎度驚かされる。やはり普通の大学とは違い、出身も年齢もご職業も様々、多様なキャリアをお持ちの方々である。

そのような方々とのお話の中でよく話題になるのが「レポートの難しさ」についてである。私自身も感じていることだが、日大通信のレポートは難しい。以前在籍していた大学のレポートは字数と参考文献がしっかりしていれば不合格になることはまずなかったが、日大は苦労した手書きのレポートが不合格で返されることがある。まるで間違った道を何キロも歩いてから間違いを指摘されたかのような虚脱感だ。

通信教育では、多くの場合授業を受けずに独学でレポートを作成することになる。
そのレポートについて相談できる教員や学友をお持ちの方も多くはないのではないだろうか。
働きながら限られた時間のなかで「無」から創造するのは大変な作業である。

そこで、私が合格したレポートの下書きデータをこのブログに掲載したいと思う。
無論、どれも出来が良いと言えるレポートではないが、参考になれば幸いである。



※もし、ご覧になる場合は恐縮ですが以下の点に注意して下さい。
・掲載するレポートは「日大通信 report」のタグで管理します。
・私はパソコンで下書きを行い大体の内容と字数を固めてから印刷をして、そこで細かい内容を推古し清書をしています。ここに掲載するものは下書き段階のもので、誤字・脱字、段落や表現の不適当なものが目立ちますが、そのままにします。
・剽窃のリスクについては皆さまを信頼致します。
・私が掲載したレポートと偶然似てしまうケースがあるかもしれませんが、報告課題の多くは参考文献とキーワードが指定されていて合格基準を満たしているものに大きな差があるとは思えないことから、問題はないと判断します。
・講評については私の言葉ではありませんので、そのままでの掲載はしません。

16 September 2013

『解体英熟語』

私は今まで「英熟語」を集中的に学習したことがなかった。せいぜい高校のリーディング授業でたまに登場する熟語+αを知っているだけ。そういう人って意外に多いと思うけど、それでも大学受験程度の単語を押さえておけばTOEICでも700くらいは取れるだろうし、英字新聞などもなんとか意味を読み取ることができる。それで周囲からは「英語が得意」と思われ、本人もその気になったりするものだ。←体験談(笑)

そして、ペーパーバックを開いたとき、映画を字幕なしで見たときの絶望感に打ちひしがれるのも、その類の人ではないだろうか?笑

勿論、小説はそもそもの基礎語彙が圧倒的に足りないということもあるし、映画なら基礎的リスニング力が追いついていない可能性もある。
しかし、語彙が偏っている専門書は慣れ次第で結構読めたり、綺麗なニュース英語は思いのほか聴き取れたりするのも事実だ。
そこで

熟語が大事なんじゃね?

って思ったわけ。
今まで無理してペーパーバックを何冊か読んできたけれど、簡単な単語の連続なのにどうしても意味が解らないことが良くあった。
映画も然り、聴き取れない個所を英字幕で見ると知らない熟語だった、なんてことが多い。
日常会話ではラテン語やフランス語由来の小難しい単語よりも平易な単語が好まれる。日本語の日常会話でも漢語が滅多に使われないのと似ているか。(英語も日本語も近代に国家意識が拡がって固有語を使う運動が発生した歴史があったりする。結局どちらも失敗したけど。)
連続する音声から「意味の纏まり」を抽出するには、知識として単語や熟語を知っている必要がある(と思う)。特に成人して「外国語」として学習している場合にはね。
映画のような日常語が聴き取れない理由は「聞き慣れないカジュアルな発音」よりも「表現そのものを知らないこと」が原因ではないかと思ったわけ。
あと、まぁ準一級にも必ず熟語の問題があるから、その対策にもなるかな?なんてw


前置きが長くなったけれど、そんな私の「弱点」である英熟語を克服しようと思いZ会出版の『解体英熟語』を購入した。

著者は速単こと『速読英単語』で有名な風早寛氏。24歳にもなって受験生向けの教材を買うのは、ドキドキするのだけど(謎)
いや、全年齢向けでタメになるもの。実は塾で教えている生徒の一人がこれを使っている。その子は読解は未熟なのにマニアックな熟語の問題は得意だったりして、講師たるもの生徒に負けてはなるまいと本書を選んだわけ。

1000個近くの熟語が載っている中で、まだ200弱しか進んでいないが、薄々と効果を感じはじめてます。例えば、いままで「単語」で捉えていたものを「熟語」として捉えることで、より正確に読めたり。これ結構大事。

学習のやり易さは普通、というか文句はないレベル。良いってことなのかもね。
インデックスが充実しているが、殆ど使っていない。そのためにレイアウトが微妙になってる気がする。
熟語についての説明が詳しくなされていて一応読むけれど、あまり頭には入ってないかなぁ。
問題集にもなっているので復習はやりやすい。個人的にはそれが一番気に入っています。

一日10個程度のペースなら一周するのに3カ月かかるので、受験生は遅くとも3年の夏休み前には始めると良いでしょうね。英単語と文法の学習もある程度終了してからのが望ましい。
英検は2級でも準1級でも必ず熟語の問題が確か5問程度出題されるので、合格ラインにギリギリの方には有効でしょう。遠く及ばない方の場合、まずは単語から、でしょうけど。