4 December 2013

「逃げ」の美学

最近、一年ぶりくらいに会った友達に「それ、逃げだよね」と言われたことが気になっている。
「それ」というのは私のフリーター同然の生活のことであって、更には私が「こういう生き方は自由だよ」とコメントしたことに対してである。
その時は「逃げと言われても一体俺が何から逃げているのか?」解らなかったのでニヤニヤしてスルーしてしまったのだが、なんとなく(?)ニュアンスが掴めてきた。

おそらく、彼はこう考えたのだろう。
「お前もいい大人なんだから、いつまでもフラフラしてないで覚悟を決めて働けよ」
勝手に付託しておいて、不遜かもしれないが確かにこれはこれで筋が通ってる。
もう少し正確に言えば、彼の目には「働かなくてはいけない、という現実から私が目を背けている」ように映っていて、それをして「逃げ」と譬えたのだろう。
だから、常識的な意見の範疇に入ると思う。上から目線が気になるけど、大事な友達だから「彼なりの檄」であることに賭け金を置きたい。

勿論、私には私なりの言い分がある。少し長くなりそうだけど書いてみよう。
話がいきなり大袈裟になるけど、そもそも人間は社会的生物である。個体としては脆弱でスタンドアローンでは生きることのできない人間が地球の生態系の中で支配的になり、それをば左右する位置にまで登りつめたのは一重に「社会」を持ちえたからに他ならない。
ホッブスがいうところの社会契約説、つまりメチャクチャやってた状態を卒業して不自由を飲み込むこと(社会と契約すること)で我々は命を繋いできたのである。

では、非正規雇用者が「自然権」を持っているのかというと、明らかにそうではない。
会社員と私を隔てているのは「(不)自由の程度の差」でしかないのである。
言うまでもなく、殆どのフリーターはぶん殴りたい奴がいてもぶん殴らないし、お腹がへってもパンを盗んだりしない。
私だってバイトの時間がくれば本を閉じて出かけるし、自慢することじゃないけど欠勤もしたことない。
私もちゃんと「社会と契約」して社会の中で生きているのだ。当たり前のことだけど、この「当たり前」を「当たり前」と感じられるからこそ、人間は社会的生物なんだな。

では、根なし草として社会に生きるというのはどういうことか?
それは相応の「リスク」を背負うということである。人間は「社会性」の他に「未来を予測する」という能力を授かったのだが、悲しいかな予測能力という知恵の実のおかげで人間は何事にも満たされなくなってしまった。
未来に対する不安は誰もが持つものであるが、大抵の社会人だって収入やら年金やら保険やらその他諸々の「シャカイホショウ」について不安を抱えているだろう。
抱えてなきゃ馬鹿だと思うが、それこそフリーターはそのリスクに人一倍身を焦がしながら生きているのである。
弱音を吐くわけじゃないが、僅かな自由と焦燥を交換してるだけで、私は楽園で暮らすアダムではないのだな(笑)

この生き方は私の選択の結果であって、もちろん誰かを呪ったことなどない。(わざわざ言いたくないんだけど、仕方ない)
例えば、現在の雇用問題(就活、性差別、ワープアetc...)について心の底からクレイジーだと思ってるし、よく文句を垂れているけど「お前らが悪いから俺は働かないんだ」なんて語法で語ったことはないし、そんな恥かしい真似ができるほどの図太さもない。
それこそ「何者かに責任転嫁すること」こそが僕の中では「逃げ」なわけ。
「これは是正されるべき問題である」「お前らは権利を侵害している」と思えば、公平性の観点(疑いはあるが)からそう批判するけれど、それは決して自分の為であってはならない。また、そのときも「他人を糾弾する語法」にはならないように気をつけている。(往々にしてなってしまうから)
勿論、ハードな理不尽を受けたことがない人間のお花畑なのかもしれないが、自己利益の言葉を発した時点で私は私が軽蔑する人間と同じ穴の狢になってしまう。
余談だけれども、だから主張に重なる部分があってもサヨクやフェミニストとは合わないんだな。

私は「会社員の苦痛を知らないこと」を憂いている。それは私が「会社員になるためには犠牲にしなくてはいけないもの」だから。そして、たとえ会社員になったとしても「誰か」になることはできないのだから。実感できないものを想像する、想像しかできないことを恥じる。
これもまた、「当たり前」の行為だと僕は思う。
別に「みんな、もっと俺のことを想像しろ!」なんて言うつもりないし、というか放っておいてもらえると助かるんだけど。ただ、僕は逃げているわけじゃないから、呆れないで遠くからそっと見ていて欲しい。アドバイスくれてありがとう、S君。