トルストイの中編小説について備忘録を兼ねて。
内容については様々な書籍やブログ良く要約されたものが見られるので端折り、個人的な雑感だけ残したい。
まず、本書は「愛」について考えさせられるものであった。
「キリスト教的な愛」とは我欲の否定のベクトルにあり、それを我々が生きる俗世では「禁欲的」と表現する。主人公は「俗世の中での愛」すなわち自己愛やナルシズムのベクトルから、ときにキリスト教を攻撃し、ときにキリスト教と俗世の狭間で葛藤する。
現在の世界では「自己否定から出発する愛は到底受け入れられるものではない」と考えられている。私達は「第一に自分のことを考えなさい」と小さい頃から躾けられ、それこそが厳しい世の中を渡っていく根本原則であると心に刻まれるのだ。
トルストイは多神教的古代ローマを無神論的な近現代社会と重ね合わせた。キリストの教えを実践する原始キリスト教をこのフィクショナルな世界に置くことによって、この常識ともいえる自己愛肯定に一石の疑問を投じているのではないだろうか。
私達は生きていく上で労働をしなければならない。それは有史以前から変わらず、またこれからも変わらないだろう。タダで食べられるものが無限に存在しない限りは労働は不可避なのだ。
労働とは自分の能力や時間を犠牲にする行為であり、それを「愛」として歓びを見出すことができるのならば、その人は幸福の状態にあるといえる。
対して自己愛から出発すれば、何らかの犠牲を払う労働は不幸な状態であり、自己の不幸を減らすためには他者を働かせる(=不幸にさせる)なければならない。
オセロの駒のように自己否定の愛と自己肯定の愛は「犠牲」を巡った表裏一体のものであり、視点の違いなのである。
トルストイは「光」とは真理であり、真理とは人間の良心だという。
私達は実際には何も見えない真っ暗な世界に生きているが、この闇の中をぽつぽつりと蝋燭のように灯して世界の実態を照らそうとしてきた。
その点で学問と良心は良く似ている。きっと両者は共にあらねばならないのだろう。