本名エマニュエル・レヴィナス、はリトアニア生まれのユダヤ人(国籍はフランス)でホロコーストのサバイバー。何をしたかって、簡単に言うとハイデカーやフッサールらに現象学を学んで、続く実存主義にも影響を与えた人物です。
自慢することじゃありませんが、僕は現代思想というやつに膝が笑うほどビビってるので大抵は概説書を齧って終わらせています。言語学にしても人類学にしても、どうしたって「現代思想」の影がチラつくので知っておきたいのですが、時間と気力を費やして果たして自分の能力でどれほどのものが得られるものがあるのか自信がないのです。
そんなヘタレ生半可なわけですが、このレヴィナスは概説書ですら一読しただけでは「何が何だかサッパリ意味不明」です(汗)
じゃあ知ったかぶるなと思われるでしょうが、それもまた快楽じゃないでしょうか。
じゃ早速、レヴィナスが「顔」について述べているセンテンスを内田樹氏の『レヴィナスと愛の現象学』から引用します。
「メッセージとしてのメッセージはそれに対して耳を塞ぐことのできないものへ、意味の意味へ、他の人間の顔への聴き取りを覚醒させる。目覚めとはまさに他者の近接性である。」
難しい、、、けど、内田氏の手引きを読みながら僕なりの解釈を交えて書き下してみます。
「コミュニケーションの中で我々は常に『問いかけ』られる。そして、その『問いかけ』からは逃れることができない。『問いかけ』は『問いかけ』ということ自体に意味がある。というのは『問いかけ』は『他者の存在』を不意に思い起こさせるからだ。」
・・・ということではないでしょうか。「他者の存在」についてレヴィナスが「顔」というシンボリックな表現を用いているのが今回のキモといたします。
では、他者とはなにか?
ここは一つ反対に「自己」について少し考えてみましょう。
誰しも一度くらいは「私は一体何者であるか」と考えたことがあるのではないでしょうか?
そしてデカルト的に「私の存在は私によってのみ認識される」しかし「私には私が何者かを証明できない」という堂々巡りがあって、結局「でも、まぁとりあえず私は存在する」と結論を保留することになる。保留しないと鏡に話しかけるデ二ーロみたいになってしまう。なんかラカン的ではありますね。
しかし、その名前も肩書きも性格も長所も短所も「私を表わすものではない」という前提というのは実は重要です。ドライな考え方ですが、私達の名前は「その人間を表わすもの」として誰かがつけた恣意的な記号でしかありません。
この図を大学で見たことがある方も多いでしょう。「リンゴ」を思い浮かべて頂ければ解ると思いますが、「リンゴがリンゴたる由縁」というのは「リンゴ」という名前でもなく「リンゴの味」でもなく「リンゴの色」でもない。「リンゴの存在によってのみリンゴはリンゴたりえる」わけです。つまり私達もリンゴも存在することによって"存在"が内的に示される。
では「他者の存在」についてレヴィナスが「顔」という表現を用いたのは何故か。
それは「顔が人間の原初的なコミュニケーションだから」ではないでしょうか。
読者が自覚しているは解りませんが、例えば誰かに電話をかけるときに感じる緊張、インターネットへの根源的な恐怖というのは「顔が見えない怖さ」であると思うのです。
「私はちょっと違うかなー」と思う方も、それじゃあ顔も知らない相手を信頼することができるでしょうか。そういえば、旧約聖書の『ヨブ記』は、それを逆手にとって「神という姿の見えない対象」のが信仰を量る試金石として活用されていたりしますね。
我々がこれほどまでに「顔」に拘るのも、おそらく我々の祖先が記号を発明する以前から「顔」によってコミュニケーションをとっていたからなのでしょう。だからこそ「顔」は「その人の名前(=意味するもの、シニフィアン)」から独立して存在するのであり、尚且つ「他者性」を帯びる、というわけです。
また、レヴィナスは他者に関連してコミュニケーションのについて語る。
『語ること』は確かにコミュニケーションである。ただし、これはあらゆるコミュニケーションの、曝露としてのコミュニケーションの条件をなすコミュニケーションなのである。
曝露としてのコミュニケーションとは、つまり「顔」を相手に晒す行為であると考えます。
「語ること」は「単に情報を伝える」だけではなく、「相手の存在を認める(=他者性の発露)」ということを包含しているのです。
私があなたに「こんにちは」という時、私はあなたを認識するより先に、あなたを祝福していたのです。私はあなたの日々を気遣っていたのです。私は単なる認識を越えたところで、あなたの人生のうちに入りこんだのです。
挨拶は「単なる情報伝達の誘い水」ではありません。「あなたを認識するよりも先に」というのは、もしかしたら「あなたが敵」である可能性を含んでいますが、そのリスクを冒しても急所を晒し「あなたを祝福する」ということ。これは子供の誕生を祝福する行為に良く似ています。可愛いガキんちょも、将来どんな大人になるか解らない。にもかかわらず、その誕生は祝福で迎えられなければならない。
とすれば、曝露としてのコミュニケーション(=語りかけること)は「小さな再生」を意味すると考えることもできる。我々は「語ること≒挨拶」を通して、存在が認められ、祝福され、そしてこの世界にまた生まれ変わるのです。
寡聞な私は挨拶を持たない文化というものを知りませんが、挨拶とは愛らしい行為ではないでしょうか。
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