最近、一年ぶりくらいに会った友達に「それ、逃げだよね」と言われたことが気になっている。
「それ」というのは私のフリーター同然の生活のことであって、更には私が「こういう生き方は自由だよ」とコメントしたことに対してである。
その時は「逃げと言われても一体俺が何から逃げているのか?」解らなかったのでニヤニヤしてスルーしてしまったのだが、なんとなく(?)ニュアンスが掴めてきた。
おそらく、彼はこう考えたのだろう。
「お前もいい大人なんだから、いつまでもフラフラしてないで覚悟を決めて働けよ」
勝手に付託しておいて、不遜かもしれないが確かにこれはこれで筋が通ってる。
もう少し正確に言えば、彼の目には「働かなくてはいけない、という現実から私が目を背けている」ように映っていて、それをして「逃げ」と譬えたのだろう。
だから、常識的な意見の範疇に入ると思う。上から目線が気になるけど、大事な友達だから「彼なりの檄」であることに賭け金を置きたい。
勿論、私には私なりの言い分がある。少し長くなりそうだけど書いてみよう。
話がいきなり大袈裟になるけど、そもそも人間は社会的生物である。個体としては脆弱でスタンドアローンでは生きることのできない人間が地球の生態系の中で支配的になり、それをば左右する位置にまで登りつめたのは一重に「社会」を持ちえたからに他ならない。
ホッブスがいうところの社会契約説、つまりメチャクチャやってた状態を卒業して不自由を飲み込むこと(社会と契約すること)で我々は命を繋いできたのである。
では、非正規雇用者が「自然権」を持っているのかというと、明らかにそうではない。
会社員と私を隔てているのは「(不)自由の程度の差」でしかないのである。
言うまでもなく、殆どのフリーターはぶん殴りたい奴がいてもぶん殴らないし、お腹がへってもパンを盗んだりしない。
私だってバイトの時間がくれば本を閉じて出かけるし、自慢することじゃないけど欠勤もしたことない。
私もちゃんと「社会と契約」して社会の中で生きているのだ。当たり前のことだけど、この「当たり前」を「当たり前」と感じられるからこそ、人間は社会的生物なんだな。
では、根なし草として社会に生きるというのはどういうことか?
それは相応の「リスク」を背負うということである。人間は「社会性」の他に「未来を予測する」という能力を授かったのだが、悲しいかな予測能力という知恵の実のおかげで人間は何事にも満たされなくなってしまった。
未来に対する不安は誰もが持つものであるが、大抵の社会人だって収入やら年金やら保険やらその他諸々の「シャカイホショウ」について不安を抱えているだろう。
抱えてなきゃ馬鹿だと思うが、それこそフリーターはそのリスクに人一倍身を焦がしながら生きているのである。
弱音を吐くわけじゃないが、僅かな自由と焦燥を交換してるだけで、私は楽園で暮らすアダムではないのだな(笑)
この生き方は私の選択の結果であって、もちろん誰かを呪ったことなどない。(わざわざ言いたくないんだけど、仕方ない)
例えば、現在の雇用問題(就活、性差別、ワープアetc...)について心の底からクレイジーだと思ってるし、よく文句を垂れているけど「お前らが悪いから俺は働かないんだ」なんて語法で語ったことはないし、そんな恥かしい真似ができるほどの図太さもない。
それこそ「何者かに責任転嫁すること」こそが僕の中では「逃げ」なわけ。
「これは是正されるべき問題である」「お前らは権利を侵害している」と思えば、公平性の観点(疑いはあるが)からそう批判するけれど、それは決して自分の為であってはならない。また、そのときも「他人を糾弾する語法」にはならないように気をつけている。(往々にしてなってしまうから)
勿論、ハードな理不尽を受けたことがない人間のお花畑なのかもしれないが、自己利益の言葉を発した時点で私は私が軽蔑する人間と同じ穴の狢になってしまう。
余談だけれども、だから主張に重なる部分があってもサヨクやフェミニストとは合わないんだな。
私は「会社員の苦痛を知らないこと」を憂いている。それは私が「会社員になるためには犠牲にしなくてはいけないもの」だから。そして、たとえ会社員になったとしても「誰か」になることはできないのだから。実感できないものを想像する、想像しかできないことを恥じる。
これもまた、「当たり前」の行為だと僕は思う。
別に「みんな、もっと俺のことを想像しろ!」なんて言うつもりないし、というか放っておいてもらえると助かるんだけど。ただ、僕は逃げているわけじゃないから、呆れないで遠くからそっと見ていて欲しい。アドバイスくれてありがとう、S君。
4 December 2013
30 November 2013
The Curse on BAKA
威張ることじゃないが、私の家族は粒よりのバカ揃いである。実際、誰ひとりとして「マトモ」な社会生活を送っている者がいないのだ。
一体、社会不適合になる遺伝子でもあるのだろうか?家庭環境によるものだろうか?或いはその両方か?
兎に角、もれなく私にもバカの血が流れていて、我ながら「俺は真正のバカだなぁ」ふとした瞬間に直感するのである。
最近でいえば、図書館の本の返却、自信満々で引き受けた仕事、法事、履修登録、公共料金の支払い、その他諸々を片っぱしから忘れるという常人離れした低能っぷりを発揮したのだった。
八方からコッテリ怒られて流石の私も落ち込んでいる。
部屋の隅で膝抱えてビールでも飲みたいぜ。くはぁ。
一体、社会不適合になる遺伝子でもあるのだろうか?家庭環境によるものだろうか?或いはその両方か?
兎に角、もれなく私にもバカの血が流れていて、我ながら「俺は真正のバカだなぁ」ふとした瞬間に直感するのである。
最近でいえば、図書館の本の返却、自信満々で引き受けた仕事、法事、履修登録、公共料金の支払い、その他諸々を片っぱしから忘れるという常人離れした低能っぷりを発揮したのだった。
八方からコッテリ怒られて流石の私も落ち込んでいる。
部屋の隅で膝抱えてビールでも飲みたいぜ。くはぁ。
9 November 2013
写真を嫌がる自意識、撮られたがる自意識
私は写真を撮られることが嫌いだ。更には、私の外見について何か言われることは、それが例え善意の褒め言葉であっても素直に受け取ることができないのである。
一体、何故だろうか?と、そのことについて、やっと考えが纏まってきたので備忘録。(まぁ俺のブログだし)
「目は口ほどに物を言う」なんて諺があるが、それはつまり、自分が沈黙していても「顔面」それ自体は何らかのメッセージを発するということでもある。初めはそれが原因ではないかと考えた。例えば、会話の最中に無表情でいれば「無関心」を表わす言外のメッセージになりえるし、そもそも私の場合であれば「20代男性」や「色黒だからスポーツでもやってそう」なんて記号にもなりえる。顔は人間の原初的なコミュニケーションツールであり、選択不可能な肩書でもあるのだ。
まぁ思春期には人並みのコンプレックスもあったが、今更「この容貌が気に食わない」などという美醜の問題ではない。私の顔に纏わりつく言外の言葉が、記号が、我慢できないのだ、と。
だって、そうでしょ?電車に乗ったときに、貴方の口が思ってもないことを勝手に喋り始めたとしたら。我々の顔面では常にそんなことが起きている。街に出れば、誰も彼もが無言で騒ぎたてているのだ。
私の顔は私のものである。故に私に従わねばならない。それを写真は、ただ一瞬を切り取って私の意思とは関係のないことを永遠に喋り続ける。またポーズや表情を上手に作れないので、私の写真は大抵変に強張っていてイヤらしいニヤケ顔だ。その写真は私にも語りかけてくる。お前は「こういう薄気味悪いニヤケ顔の人間なんだよ」、と。この過剰気味の自意識が私の「写真嫌い」の原因なんじゃないかと、そう考えていたわけ。
しかし、最近、コトはそれほど単純ではないと考えを改める機会があった。先日のハロウィンである。その日、私のFacebookのページには、思い思いのコスプレをした楽しそうな友達や知り合いの写真がとても見きれないほど沢山アップされた。もはやハロウィンとは何の関係のないコスプレも多く、初めは「いい年しちゃって、そもそもハロウィンの仮装って子供がやるもんなんじゃねーの?」なーんて嘲り気味にウンザリしたんだけど、彼ら彼女らのコスプレは実は私の写真嫌いと案外近い根を持つのかもしれないと、ふと思ったのだ。
人は、仮装を通して「普段の本人ではない別の何か」を表出させる。
そもそも、人間はアンビバレントな二極性を持った生き物であることを忘れてはならない。いわゆる「建前」と「本音」、「表」と「裏」やフロイトよろしく「意識」と「無意識」などとよばれるものだが、普通、本人は自らの「本音」など解らないし、アテをつけて説明しようと思ってもそれを上手に言語化することもできない。だから、他者に「本音」をブチまけることや「裏の顔」を見せても何の意味もないし面倒くさいだけだと普通の人間は学習している。例えば、おもちゃ売り場の前で泣き叫ぶ子供はいても大人はそんなことしないよね。当たり前だけども、「表」の同一性を保てない人間にマトモな社会生活を送ることはできない。そのうちに「本音」は心の深く深く、本人でさえも見つけられない場所に仕舞われていくのである。
しかし、隠れている「本音」は、その状態が続くことを良しとしない。そこで、本音は「祭り」や「芸術」、「無礼講の場」、もしくは精神的に昂ぶっている状態を借りてシャンパンの泡のようにフラフラと表面に出てくる。
トロブリアンド諸島には、年に一度だけ普段は威厳のある村の長老が女性たちにヤムイモを投げつけられるという祭事があるらしい。ヤムイモから逃げ回る半裸のジイサンを想像するだけで笑えるが、こうして日常の秩序が逆転することによって、人々は澱が溜まり鬱屈した心に平安を、曳いては社会に安定をもたらすのではないだろうか。ある特定の日、その日だけは、誰もがシンデレラになり、詩人となり、または関係を逆転させて「本音」を表出させるのだ。
「私を見て!かわいいでしょ?かっこいいでしょ?私を必要として!評価して!もっと僕に共感して!」
コスプレをした人々の心の中に一体どんな声が鳴り響いているのかは私には見当がつかない。
しかし、「本音」というやつは、ハロウィンを口実にコスプレというペルソナを被って、重い重い「建前」の覆いから這い出てくるのだ。ペルソナ(persona)とはすなわちパーソナリティ(personality)なのである。まぁ無論、これは全て私の底意地の悪い妄想だし、もし本当だったとしてもコスプレしてる人達が自覚的だとは思わないけどね。
ここで疑問が一つ浮かび上がる。
「なぜ、本音はコスプレで着飾って出てくるのか」ということである。
これに答える前に、恐縮だが少しだけ私の経験を述べたい。私は学生時代に運動部に所属していて、その殆どを補欠として過ごした。人数が少ないクラブだったので、学年が上がって同期生や後輩達(ろくに練習にこない奴もいた)がみな試合に出ているにも関わらずっと補欠である(笑)告白すると、彼らが活躍したりマネージャーから声援を送られたりしてるのをベンチから見るのは、羨ましくて悲しくて劣等感と喪失感で胸が詰まる思いだったのだ。何より親友を含めた味方を素直に応援できない不条理な感情への自己嫌悪にも苛まされたな。まぁ、こんなことはどうでもいいんだけど、心の中では、まさに「表」と「裏」の相克が繰り広げられていたのである。
そんなとき、私はあることに気がついた。「写真を撮って貰いたいと思う自分がいる」ということである。昔から写真は苦手だったので矛盾した感情だし、あくまで消極的なんだけど「紺のピンストライプ(←クラブのユニフォームね)を着て試合に出ているところを撮って欲しい」という欲求が芽生えたのだ。
マネージャー達は試合に出ている人間しか写さないので(当たり前だが)、当時の私の写真は殆ど残っていない。いや「ただの助平心じゃねーか!」と思われそうだけど、そんなことは自分が一番知っとるわ!
まぁ、きっと当時の私は自らのアイデンティティの殆どをクラブの一員であることに置いていて、その証明が欲しかったのだ。逆説的に言えば「写真を撮って貰えないこと」と「チームから除外されること」が私の頭の中で「=」で繋がっていた。なんでこんなに頑張ってるのに誰も自分を認めてくれないの?俺はチームの一員じゃないの?もっと見て欲しい、評価して欲しい、期待して欲しい。おそらく、そんな感情が私に相反する思いを抱かせたのだ。
ここで考えなければならないのは、あくまで「ユニフォーム姿の写真」に拘泥した点である。人間は他者に必要とされることで自らの存在を確認するのだが、当時の私は「チームに必要とされている存在」という象徴がアイデンティティの平穏を保つために必要だったのだろう。
写真を撮るのはいつも「非日常」の瞬間であるが、写真は永遠でもある。
友人と笑顔で撮った写真は永遠に残る幸せの印だし、成人式や卒業式での着飾った写真は美や成長、青春の証となる。卒業アルバムの授業風景だって「日常にみせかけた写真」であったことは皆覚えているのではないだろうか。ともかくも、そうした象徴を求める気持ちを単なるナルシズムと嗤いたくはない。
明治以前の本邦では、「写真をとると魂が抜かれる」という迷信が実しやかに囁かれた。写真に魔力を感じたというのは実に興味深い(率直な反応だと思う)が、もしかしたら写真用のペルソナ(ポーズなど)を持ちえなった当時の人々が、自分の「本音」まで見透かされることに恐怖したのではないだろうか。写真に慣れ、写真がもつ魔力も充分に理解している私達でさえ、そこに写るには仮面という触媒を必要とするのだから。逆説的だが、現代でも上手にペルソナを作れない者はやはり写真に魔力を感じ消極的になるのだ。
きっと、誰であろうと仮面の下に不条理で冴えない顔の「本音の私達」がしょんぼりと立っているのだろう。
一体、何故だろうか?と、そのことについて、やっと考えが纏まってきたので備忘録。(まぁ俺のブログだし)
「目は口ほどに物を言う」なんて諺があるが、それはつまり、自分が沈黙していても「顔面」それ自体は何らかのメッセージを発するということでもある。初めはそれが原因ではないかと考えた。例えば、会話の最中に無表情でいれば「無関心」を表わす言外のメッセージになりえるし、そもそも私の場合であれば「20代男性」や「色黒だからスポーツでもやってそう」なんて記号にもなりえる。顔は人間の原初的なコミュニケーションツールであり、選択不可能な肩書でもあるのだ。
まぁ思春期には人並みのコンプレックスもあったが、今更「この容貌が気に食わない」などという美醜の問題ではない。私の顔に纏わりつく言外の言葉が、記号が、我慢できないのだ、と。
だって、そうでしょ?電車に乗ったときに、貴方の口が思ってもないことを勝手に喋り始めたとしたら。我々の顔面では常にそんなことが起きている。街に出れば、誰も彼もが無言で騒ぎたてているのだ。
私の顔は私のものである。故に私に従わねばならない。それを写真は、ただ一瞬を切り取って私の意思とは関係のないことを永遠に喋り続ける。またポーズや表情を上手に作れないので、私の写真は大抵変に強張っていてイヤらしいニヤケ顔だ。その写真は私にも語りかけてくる。お前は「こういう薄気味悪いニヤケ顔の人間なんだよ」、と。この過剰気味の自意識が私の「写真嫌い」の原因なんじゃないかと、そう考えていたわけ。
しかし、最近、コトはそれほど単純ではないと考えを改める機会があった。先日のハロウィンである。その日、私のFacebookのページには、思い思いのコスプレをした楽しそうな友達や知り合いの写真がとても見きれないほど沢山アップされた。もはやハロウィンとは何の関係のないコスプレも多く、初めは「いい年しちゃって、そもそもハロウィンの仮装って子供がやるもんなんじゃねーの?」なーんて嘲り気味にウンザリしたんだけど、彼ら彼女らのコスプレは実は私の写真嫌いと案外近い根を持つのかもしれないと、ふと思ったのだ。
人は、仮装を通して「普段の本人ではない別の何か」を表出させる。
そもそも、人間はアンビバレントな二極性を持った生き物であることを忘れてはならない。いわゆる「建前」と「本音」、「表」と「裏」やフロイトよろしく「意識」と「無意識」などとよばれるものだが、普通、本人は自らの「本音」など解らないし、アテをつけて説明しようと思ってもそれを上手に言語化することもできない。だから、他者に「本音」をブチまけることや「裏の顔」を見せても何の意味もないし面倒くさいだけだと普通の人間は学習している。例えば、おもちゃ売り場の前で泣き叫ぶ子供はいても大人はそんなことしないよね。当たり前だけども、「表」の同一性を保てない人間にマトモな社会生活を送ることはできない。そのうちに「本音」は心の深く深く、本人でさえも見つけられない場所に仕舞われていくのである。
しかし、隠れている「本音」は、その状態が続くことを良しとしない。そこで、本音は「祭り」や「芸術」、「無礼講の場」、もしくは精神的に昂ぶっている状態を借りてシャンパンの泡のようにフラフラと表面に出てくる。
トロブリアンド諸島には、年に一度だけ普段は威厳のある村の長老が女性たちにヤムイモを投げつけられるという祭事があるらしい。ヤムイモから逃げ回る半裸のジイサンを想像するだけで笑えるが、こうして日常の秩序が逆転することによって、人々は澱が溜まり鬱屈した心に平安を、曳いては社会に安定をもたらすのではないだろうか。ある特定の日、その日だけは、誰もがシンデレラになり、詩人となり、または関係を逆転させて「本音」を表出させるのだ。
「私を見て!かわいいでしょ?かっこいいでしょ?私を必要として!評価して!もっと僕に共感して!」
コスプレをした人々の心の中に一体どんな声が鳴り響いているのかは私には見当がつかない。
しかし、「本音」というやつは、ハロウィンを口実にコスプレというペルソナを被って、重い重い「建前」の覆いから這い出てくるのだ。ペルソナ(persona)とはすなわちパーソナリティ(personality)なのである。まぁ無論、これは全て私の底意地の悪い妄想だし、もし本当だったとしてもコスプレしてる人達が自覚的だとは思わないけどね。
ここで疑問が一つ浮かび上がる。
「なぜ、本音はコスプレで着飾って出てくるのか」ということである。
これに答える前に、恐縮だが少しだけ私の経験を述べたい。私は学生時代に運動部に所属していて、その殆どを補欠として過ごした。人数が少ないクラブだったので、学年が上がって同期生や後輩達(ろくに練習にこない奴もいた)がみな試合に出ているにも関わらずっと補欠である(笑)告白すると、彼らが活躍したりマネージャーから声援を送られたりしてるのをベンチから見るのは、羨ましくて悲しくて劣等感と喪失感で胸が詰まる思いだったのだ。何より親友を含めた味方を素直に応援できない不条理な感情への自己嫌悪にも苛まされたな。まぁ、こんなことはどうでもいいんだけど、心の中では、まさに「表」と「裏」の相克が繰り広げられていたのである。
そんなとき、私はあることに気がついた。「写真を撮って貰いたいと思う自分がいる」ということである。昔から写真は苦手だったので矛盾した感情だし、あくまで消極的なんだけど「紺のピンストライプ(←クラブのユニフォームね)を着て試合に出ているところを撮って欲しい」という欲求が芽生えたのだ。
マネージャー達は試合に出ている人間しか写さないので(当たり前だが)、当時の私の写真は殆ど残っていない。いや「ただの助平心じゃねーか!」と思われそうだけど、そんなことは自分が一番知っとるわ!
まぁ、きっと当時の私は自らのアイデンティティの殆どをクラブの一員であることに置いていて、その証明が欲しかったのだ。逆説的に言えば「写真を撮って貰えないこと」と「チームから除外されること」が私の頭の中で「=」で繋がっていた。なんでこんなに頑張ってるのに誰も自分を認めてくれないの?俺はチームの一員じゃないの?もっと見て欲しい、評価して欲しい、期待して欲しい。おそらく、そんな感情が私に相反する思いを抱かせたのだ。
ここで考えなければならないのは、あくまで「ユニフォーム姿の写真」に拘泥した点である。人間は他者に必要とされることで自らの存在を確認するのだが、当時の私は「チームに必要とされている存在」という象徴がアイデンティティの平穏を保つために必要だったのだろう。
写真を撮るのはいつも「非日常」の瞬間であるが、写真は永遠でもある。
友人と笑顔で撮った写真は永遠に残る幸せの印だし、成人式や卒業式での着飾った写真は美や成長、青春の証となる。卒業アルバムの授業風景だって「日常にみせかけた写真」であったことは皆覚えているのではないだろうか。ともかくも、そうした象徴を求める気持ちを単なるナルシズムと嗤いたくはない。
明治以前の本邦では、「写真をとると魂が抜かれる」という迷信が実しやかに囁かれた。写真に魔力を感じたというのは実に興味深い(率直な反応だと思う)が、もしかしたら写真用のペルソナ(ポーズなど)を持ちえなった当時の人々が、自分の「本音」まで見透かされることに恐怖したのではないだろうか。写真に慣れ、写真がもつ魔力も充分に理解している私達でさえ、そこに写るには仮面という触媒を必要とするのだから。逆説的だが、現代でも上手にペルソナを作れない者はやはり写真に魔力を感じ消極的になるのだ。
きっと、誰であろうと仮面の下に不条理で冴えない顔の「本音の私達」がしょんぼりと立っているのだろう。
20 October 2013
異文化こみゅにけーしょん
数年振りに『異文化(間)コミュニケーション論』なる講座を受講した、といっても講師も学校も違うけれど。
授業はババア講師の自分語りとグループディスカッションを交互に繰り返しての進行。通信らしく生徒の年代や職業がバラついていて、そういう人々との班毎のディスカッションはエキサイティングだった。しかしながら、講師の話に傾聴できるものは殆どなく単位を金で買った感は否めない(←個人的意見です)
ババアをつぶさに観察して二十余年、自称ババア研究家の私だから今回の講師について言いたいことも山ほどあるが、私ももう大人だし、ここでやっても一方通行の悪口なるので、ここらで溜飲をさげておく。
本日はタイトル通り今回の講義と「異文化コミュニケーション」について。
日本人が下手だと言われている「コミュニケーション」。その頭に「異文化」なんてついてしまうと、もうそれだけで頭がクラクラする。苦手意識は外国人(異文化と同意ではないが)恐怖症なるものに進化して、その克服のために「英語教育」へのプレッシャーは日ごと高まっている。らしい。
で、その問題の発見・考察、解決に結び付けていくのが「異文化コミュニケーション」なる学問だ。
「なんか安易すぎんだろテメー!」と叫びたいところだが、仕方ない。そう来るなら、あえてその土俵で考えてみようじゃないか。
異文化間におけるコミュニケーション不全というのは、字義通り「文化」を「異」にするが故に発生するものと考えよう。
日本人が日本で生活する中で「自分が日本文化に浸っていると自覚する」ことは殆どない。地理的、言語的など幾つかの要因が考えられるが、日本社会において「日本人」はとてつもなく大きなマジョリティなわけ。
海外旅行や留学、出張で初めて「私は日本人である」なんて自覚を持つ人も結構いるっていうしね。実際、筆者の周りにもそういう人はいます。
つまり「文化」や「民族的アイデンティティ」は異文化を迂回してこそ初めて自覚できるものだと私は考える。例えば、近代以前のそこらへんの農民に「おもてなしは日本文化ですか?」なんて質問しても「はぁ?」としか返されなかったはずだ。(そもそも、現代日本人のマインドをどんなに蒸留しても「おもてなし」が出てくるかは疑問であるが。)
じゃあ、「文化とは何か?」って言ったら、これが漠然とした概念の問題になる。
個人的には「特定の人々のマインド」が「言語行動と身体行動」として表出して「その上澄みの部分」が文化と呼ばれているんじゃないかと思ってる。「上澄み」がより洗練されれば、学問や芸術、もしくは伝統とよばれるのだろう。また、個々人の成長過程においては逆方向に文化・環境がマインドを形作っていくとも思うので、人々と文化は双方向的なのかな。
とにかく、人々はそうして育まれた価値観を通して外界と接触するようになる。
授業内の発表では「日本人としての自覚をもつことが異文化コミュニケーションの手筈になる」なんてことを言ってる人が結構いた。
講師も似たようなこと、例えば「日本人として日本文化の理解を深めることは必須である」ってな結論を述べて授業は終わった。
いやいやいや、それだけでいいのだろうか?
「手前が何人であるか」なんて、そんな名刺交換レベルのコミュニケーションなんか、そもそも問題にはなってないわけ。
普通に考えて「日本文化の知識」なんて網羅できるわけがない。わざわざ「調べなければ解らない」ということは(当人を形作る)生活に根差していないわけだし、伝統文化のような「上澄み」から日本人の考え方を抽出するのは相当洗練された知性が必要である。いってみれば、ワインを飲んでその葡萄の味を想像するようなものである。外国人に日本について何か聞かれても知らなければ「知らない」と答えればいい。無教養であるというのはギクリとすることだし、その感覚に担保されて我々の教養は拡大するが、中身の伴わないクイズ王みたいな知識を集めることも、結構な恥かしさだと思う。
本題に戻そう。異文化コミュニケーションの目的って、もっとプリミティブな部分でギャップの大きい人間同士がどうやってその相克を乗り越えるかってことなんじゃない?
確かに「自分が何者であるか」を自覚するというのは、大切かもしれないし、実際に気が遠くなるくらい大変な作業だ。だからこそ、私達の大切なアイデンティティの核を国籍というものに簡単に置いてしまっていいのか、と思ってしまう。「国籍」や「民族」というものは偶然的な社会的立場にすぎず(もちろん無碍にできるとも思わないが)、それが異文化間の人間関係において「印」にこそなっても居場所を提供してくれるわけではないのだ。
さっき、「人は文化の中で価値観を形作る」ってなこと書いたけど、同じ文化の中にいれば傾向があったとしても紋切型の同じマインドの人間が量産される、というわけではないじゃん。
勿論、文化や環境の影響は強く受けるだろうけど、人の価値観は人生をかけてその人が作ってきたものだ。
「日本人という自覚」なんていうのは、ときに都合の良いステレオタイプを自己暗示的に使うことになりえる(『オモテナシ』しかり『サムライ』しかり)。
まぁ、ここまで書いといて無責任かもしんないけど、異文化コミュニケーションの技術的なことなんか偉そうにあーだこーだ言う気はないんだ。そもそもケース・スタディであって、「正解」とよべるものや「秘訣」なんてものを求めることが間違っている。あるとすれば、文化相対主義、、というより「みんなで仲良くやりましょう」って気持ちくらいじゃないですかね。
ただ一つ。私なら、「貴方が何人であるか」や「貴方の国の豆知識」ではなく、貴方が何をどう捉えて、どう感じて、どう考えているのか、貴方の言葉で説明して欲しい。
つまり、自分の内面とのコミュニケーションを通じて表出してくる言葉、それをして私は初めて「貴方が何者であるか」ということを想像できるのだ。
授業はババア講師の自分語りとグループディスカッションを交互に繰り返しての進行。通信らしく生徒の年代や職業がバラついていて、そういう人々との班毎のディスカッションはエキサイティングだった。しかしながら、講師の話に傾聴できるものは殆どなく
ババアをつぶさに観察して二十余年、自称ババア研究家の私だから今回の講師について言いたいことも山ほどあるが、私ももう大人だし、ここでやっても一方通行の悪口なるので、ここらで溜飲をさげておく。
本日はタイトル通り今回の講義と「異文化コミュニケーション」について。
日本人が下手だと言われている「コミュニケーション」。その頭に「異文化」なんてついてしまうと、もうそれだけで頭がクラクラする。苦手意識は外国人(異文化と同意ではないが)恐怖症なるものに進化して、その克服のために「英語教育」へのプレッシャーは日ごと高まっている。らしい。
で、その問題の発見・考察、解決に結び付けていくのが「異文化コミュニケーション」なる学問だ。
「なんか安易すぎんだろテメー!」と叫びたいところだが、仕方ない。そう来るなら、あえてその土俵で考えてみようじゃないか。
異文化間におけるコミュニケーション不全というのは、字義通り「文化」を「異」にするが故に発生するものと考えよう。
日本人が日本で生活する中で「自分が日本文化に浸っていると自覚する」ことは殆どない。地理的、言語的など幾つかの要因が考えられるが、日本社会において「日本人」はとてつもなく大きなマジョリティなわけ。
海外旅行や留学、出張で初めて「私は日本人である」なんて自覚を持つ人も結構いるっていうしね。実際、筆者の周りにもそういう人はいます。
つまり「文化」や「民族的アイデンティティ」は異文化を迂回してこそ初めて自覚できるものだと私は考える。例えば、近代以前のそこらへんの農民に「おもてなしは日本文化ですか?」なんて質問しても「はぁ?」としか返されなかったはずだ。(そもそも、現代日本人のマインドをどんなに蒸留しても「おもてなし」が出てくるかは疑問であるが。)
じゃあ、「文化とは何か?」って言ったら、これが漠然とした概念の問題になる。
個人的には「特定の人々のマインド」が「言語行動と身体行動」として表出して「その上澄みの部分」が文化と呼ばれているんじゃないかと思ってる。「上澄み」がより洗練されれば、学問や芸術、もしくは伝統とよばれるのだろう。また、個々人の成長過程においては逆方向に文化・環境がマインドを形作っていくとも思うので、人々と文化は双方向的なのかな。
とにかく、人々はそうして育まれた価値観を通して外界と接触するようになる。
授業内の発表では「日本人としての自覚をもつことが異文化コミュニケーションの手筈になる」なんてことを言ってる人が結構いた。
講師も似たようなこと、例えば「日本人として日本文化の理解を深めることは必須である」ってな結論を述べて授業は終わった。
いやいやいや、それだけでいいのだろうか?
「手前が何人であるか」なんて、そんな名刺交換レベルのコミュニケーションなんか、そもそも問題にはなってないわけ。
普通に考えて「日本文化の知識」なんて網羅できるわけがない。わざわざ「調べなければ解らない」ということは(当人を形作る)生活に根差していないわけだし、伝統文化のような「上澄み」から日本人の考え方を抽出するのは相当洗練された知性が必要である。いってみれば、ワインを飲んでその葡萄の味を想像するようなものである。外国人に日本について何か聞かれても知らなければ「知らない」と答えればいい。無教養であるというのはギクリとすることだし、その感覚に担保されて我々の教養は拡大するが、中身の伴わないクイズ王みたいな知識を集めることも、結構な恥かしさだと思う。
本題に戻そう。異文化コミュニケーションの目的って、もっとプリミティブな部分でギャップの大きい人間同士がどうやってその相克を乗り越えるかってことなんじゃない?
確かに「自分が何者であるか」を自覚するというのは、大切かもしれないし、実際に気が遠くなるくらい大変な作業だ。だからこそ、私達の大切なアイデンティティの核を国籍というものに簡単に置いてしまっていいのか、と思ってしまう。「国籍」や「民族」というものは偶然的な社会的立場にすぎず(もちろん無碍にできるとも思わないが)、それが異文化間の人間関係において「印」にこそなっても居場所を提供してくれるわけではないのだ。
さっき、「人は文化の中で価値観を形作る」ってなこと書いたけど、同じ文化の中にいれば傾向があったとしても紋切型の同じマインドの人間が量産される、というわけではないじゃん。
勿論、文化や環境の影響は強く受けるだろうけど、人の価値観は人生をかけてその人が作ってきたものだ。
「日本人という自覚」なんていうのは、ときに都合の良いステレオタイプを自己暗示的に使うことになりえる(『オモテナシ』しかり『サムライ』しかり)。
まぁ、ここまで書いといて無責任かもしんないけど、異文化コミュニケーションの技術的なことなんか偉そうにあーだこーだ言う気はないんだ。そもそもケース・スタディであって、「正解」とよべるものや「秘訣」なんてものを求めることが間違っている。あるとすれば、文化相対主義、、というより「みんなで仲良くやりましょう」って気持ちくらいじゃないですかね。
ただ一つ。私なら、「貴方が何人であるか」や「貴方の国の豆知識」ではなく、貴方が何をどう捉えて、どう感じて、どう考えているのか、貴方の言葉で説明して欲しい。
つまり、自分の内面とのコミュニケーションを通じて表出してくる言葉、それをして私は初めて「貴方が何者であるか」ということを想像できるのだ。
12 October 2013
Judge not, that you be not judged.
ツイッターに不適切な書き込み…(サンスポ)
ロッテは10日、自身のツイッターに不適切な書き込みをしたとして、神戸拓光(こうべ・たくみ)外野手(28)を厳重注意した。
神戸は同日朝、東京・三鷹市で発生した女子高校生殺人事件について投稿。
殺害された女子生徒の名誉を傷つけるような内容がネット上で騒動となり、球団事務所には抗議電話が殺到した。
球団はフェニックス・リーグ(宮崎県)に参加中の神戸と連絡をとって文言を削除させた上、同日夜までに同じツイッター上で本人が謝罪した。
林球団本部長は「大変に申し訳ない。ご遺族、関係者に深くおわびします」と陳謝し、11日以降に追加制裁を科す可能性を示唆した。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(マタイ7:1-2)
山上の垂訓の一節である。三鷹の事件について、痛ましく思う人もいれば何の感情も抱かない人もいるだろう。しかし、わざわざ無関係だった人間が無責任な「裁き」を衆目に晒す必要があるのかと思わずにいられない。
この事件の幾つかの側面が、それぞれ少しずつ世間の好奇心を刺激しているように思う。
思いつくままに幾つか挙げてみれば、被害者が未成年の芸能人であったこと、加害者とネットを通じて知り合っていたこと、加害者がハーフであること、警察の対応がまたもや杜撰であったこと、などである。
そして、特にネットでは被害者の写真が流布されたという点で、センセーショナルな事件として扱われているのだと思う。
しかし、考えてみれば「警察に関すること」以外は、どれだけ悲劇的であっても偶然見えてしまった極めてパーソナルな問題である。誰かのプライベートに対して、野球選手だろうと誰だろうとが文句垂れる筋合いがあるのか?
そして、この垣間見えた個人の私生活も、その人間の小さな小さな断片にすぎない。
事情を知らない私達が、その断片を歪に繋ぎ合せてフィクションを作り出して楽しんでいるとすれば、とてつもなく下衆でおぞましいことじゃないか。
この事件の裏に何があったか知る由もないのに、それを加害者であれ被害者であれ裁くことなどできるはずがないではないか。
私の少ない人生経験の中でも、ボコボコにぶん殴りたいほどムカついた奴もいる。今更どうでもいいけど納得していないことも沢山ある。
逆に私を殺したいほど憎んでいるヤツだっているかもしれない。
まだ偶然行為に及んでいない、行為に至らなかっただけだ。もし事件になったとしても何も知らない奴らに、あーだこーだ言われたくはない。
偶然であれ彼ら彼女らのプライベートを覗いてしまった人間は、もはや事件と無関係ではないのかもしれないが、その中で「知ってしまったこと」と「知らないこと」を謙虚に見極めるべきではないだろうか。
我々は加害者が法に則って適切に裁かれることこそを見届けるべきではないか。
ロッテは10日、自身のツイッターに不適切な書き込みをしたとして、神戸拓光(こうべ・たくみ)外野手(28)を厳重注意した。
神戸は同日朝、東京・三鷹市で発生した女子高校生殺人事件について投稿。
殺害された女子生徒の名誉を傷つけるような内容がネット上で騒動となり、球団事務所には抗議電話が殺到した。
球団はフェニックス・リーグ(宮崎県)に参加中の神戸と連絡をとって文言を削除させた上、同日夜までに同じツイッター上で本人が謝罪した。
林球団本部長は「大変に申し訳ない。ご遺族、関係者に深くおわびします」と陳謝し、11日以降に追加制裁を科す可能性を示唆した。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(マタイ7:1-2)
山上の垂訓の一節である。三鷹の事件について、痛ましく思う人もいれば何の感情も抱かない人もいるだろう。しかし、わざわざ無関係だった人間が無責任な「裁き」を衆目に晒す必要があるのかと思わずにいられない。
この事件の幾つかの側面が、それぞれ少しずつ世間の好奇心を刺激しているように思う。
思いつくままに幾つか挙げてみれば、被害者が未成年の芸能人であったこと、加害者とネットを通じて知り合っていたこと、加害者がハーフであること、警察の対応がまたもや杜撰であったこと、などである。
そして、特にネットでは被害者の写真が流布されたという点で、センセーショナルな事件として扱われているのだと思う。
しかし、考えてみれば「警察に関すること」以外は、どれだけ悲劇的であっても偶然見えてしまった極めてパーソナルな問題である。誰かのプライベートに対して、野球選手だろうと誰だろうとが文句垂れる筋合いがあるのか?
そして、この垣間見えた個人の私生活も、その人間の小さな小さな断片にすぎない。
事情を知らない私達が、その断片を歪に繋ぎ合せてフィクションを作り出して楽しんでいるとすれば、とてつもなく下衆でおぞましいことじゃないか。
この事件の裏に何があったか知る由もないのに、それを加害者であれ被害者であれ裁くことなどできるはずがないではないか。
私の少ない人生経験の中でも、ボコボコにぶん殴りたいほどムカついた奴もいる。今更どうでもいいけど納得していないことも沢山ある。
逆に私を殺したいほど憎んでいるヤツだっているかもしれない。
まだ偶然行為に及んでいない、行為に至らなかっただけだ。もし事件になったとしても何も知らない奴らに、あーだこーだ言われたくはない。
偶然であれ彼ら彼女らのプライベートを覗いてしまった人間は、もはや事件と無関係ではないのかもしれないが、その中で「知ってしまったこと」と「知らないこと」を謙虚に見極めるべきではないだろうか。
我々は加害者が法に則って適切に裁かれることこそを見届けるべきではないか。
ハルカトミユキ ニュートンの林檎
21 September 2013
『言語を生み出す本能』
スティーブン・ピンカー著
原題はTHE LANGUAGE INSTINCT How the Mind Creates Language
(リンクは上巻のみ)
言語学関係の書籍としては一時期異例の人気を博した本書。読んでみれば、なぜブームになったのか理解できる。レベル的には、大学の眠くて仕方がない言語学の概説講座で扱われるような内容であるが、「よくある身近な例文」と
一口に「言語学」といっても、その分野は様々である。音韻論、音声学、意味論、語用論、形態論、そして難解な統語論(生成文法)と認知言語学についての位置関係も掴みやすい。外国語学習をする際には「母語との違い」ばかりが気になるが、凡そ人間の言語にこれほどの共通点がある、と知るのは新鮮な驚きである。また、それらの解説が「どのように人間は言語を生み出しているのか」という本書のテーマである問いに有機的に繋がっていく様は、まるでミステリー小説を読んでいるかのようだ。大袈裟だが学問の快楽とはこういうものだろう。
さて、褒めるのもそこそこに笑
著者はサピア=ウォーフの仮説(本書では言語決定論)やジョージ・オーウェルの『1984』に登場する「ニュー・スピーク」などを固く撥ねつけている。
言語相対論は簡潔にいえば人類学で提唱された理論であり「人間は母語を通して外界を認識する」というものである。オーウェルのニュースピークは「思考を制限するために作られた人工言語」というフィクションである。
スティーブン・ピンカーの言語本能説の立場からは、そのような説(?)を認めるわけにはいかない。例えば古代日本語はblueもgreenも「アヲ」と表現したし現在でもその境界は曖昧であるが、上代の日本語話者がそれらを見分けられなかったわけではない。つまり「例え何語の話者であろうとも、知覚する世界が違うわけではない」という考え方になる。
ピンカーはサピア=ウォーフ仮説を批判するのに大袈裟な例や言語相対仮説の失敗した実験例や根拠薄弱な例ばかりを引用しているが、そもそもこの仮説には「言語が知覚の様式を決定する」とする強い仮説と「言語が知覚に影響を及ぼす」とする弱い仮説の2種類が存在していて、現在の主流は弱い仮説であるので極端なものばかりを論じても仕方がないのだ。
当のサピアもウォーフも言語と認識の関係については「必然ではない」と述べているわけだしね。
必要ないかもしれないが、ここで私の愚考を披露すると、言語には本能的側面と文化的側面があり、両者はメビウスの輪の表裏のように分かち難く結びついていると考える。
異文化に接したことがあれば異なる行動、規範、価値観といったものを感じる人が多いだろうが、文化はときに人間の生理現象にまで影響する。言語は文化と密接に結びつき、ときに言語と文化が表裏一体であるが故に「言語が知覚に影響を及ぼす」のである。
言語から文化を引き算するのは困難であるので、些か妥協的だが、我々の思考や知覚、経験は「考えられている程には言語には縛られていない」と言えるかもしれない。しかし、「全く縛られていない」とするのはやはり無理があると感じる。
20 September 2013
発達と学習
このレポートでは、知能と学力の関係について述べたい。まず、知能と学力それぞれを定義し明確にした上でそれぞれにどのような関係性があるのかを考える。「知能」はこれまで多くの先人たちによって様々な定義がなされてきた。普段、我々が使う意味では、他人が思いつかないような発想で物事を解決・向上させる能力や、暗記する能力などに用いることが多い。現在のところ知能の定義は数多くあり、そのどれも決定的とは言えないため、確立はされていない。例えば、心理学の分野では大まかに、抽象的な思考能力、環境への適応能力、学習する能力と考えられている。しかしまがら、このレポートでは知能を明確に数値化して考える必要があるため、ボーリングによる「知能とは知能テストにより測定された能力である」という定義を用いる。
知能を測るための知能測定は様々な形式が作られ、また改良されてきた。知能検査にはおおまかに集団式と個別式がありそれぞれに長所と短所がある。集団式は簡便であり一度に多人数を検査することができる反面、環境による信頼性に疑問も残る。個別式の知能検査には、ビネー式とその改良型である鈴木ビネー式や田中ビネー式、そしてウェクスラー式といったものがあり、本レポートでは主にこちらの個別式について述べたい。
ビネー式は1905年に原型つくられ、その後の改訂を経て世界に普及した知能検査である。同年齢集団の3/4が正答する問題をその年齢の基準とし、知能年齢と実際の年齢の関係から知能指数を割り出している。知能指数の式は次の通りである。
知能指数(IQ)=精神年齢(MA)/生活年齢(CA)×100
また、この知能指数から知能偏差値(ISS)を求めることができる。知能偏差値とは、主に同じ年齢の集団内で特定の個人の知能がどの位置にあるかを示すものであり、その利点は後述する学力偏差値との比較が容易になるということや、母集団のばらつきがある場合でも相対的な位置が把握しやすいことが挙げられる。
☆知能偏差値(ISS)=10(個人の得点-集団の平均点)/集団の標準偏差+50
という式で知能偏差値は求められる。標準偏差は16とされている。
ウェクスラー式の知能検査は1939年にアメリカで開発され、以後改良や各国語への翻訳が行われた。ウェクスラー式の特徴は、言語性IQ、動作性IQ、全体のIQが算出できる点、対象年齢者によって検査を選択できる点、そして偏差知能指数(DIQ)を採用しているといったことである。(田中ビネー式においても乳児用のテストを採用している。)
偏差知能指数(DIQ)もやはり、集団内での個人の知能の位置を相対的に表すことができる。この場合、平均は100で計算される。
偏差知能指数=15×(個人の得点-同一年齢集団の平均点)/同一年齢集団の標準偏差+100
という式で表わされる。ウェクスラー式の標準偏差は15であり、知能偏差値への転換も容易である。
次に学力について考えたい。学力の定義は知能以上に難しいが、一般的に学業成績など課題や科目を学習した到達度からみる能力と課題と科目を学習する能力の二つの側面があり、互いに密接に結びついている。また、それに加えて学ぶ意欲や主体的に問題を解決する能力など、内面性も含めるとする意見もある。この学力を測定するのに、学力検査がある。学力検査によって学習の成就度が測れ、延いては知能検査との比較が可能になる。ただし、学力検査の種類と評価の仕方は幾つもあるので注意が必要である。ここでは、個人の学力が全国でどの位置にあるか確認することができる全国標準学力検査を用いたい。学力検査の結果を偏差値に換算したものを学力偏差値という。知能偏差値が集団内で個人の知能の位置を示すように、学力偏差値によって集団内での個人の学力の位置を把握することができる。学力偏差値は次の式で求まる。
学力偏差値=10×(個人の得点-集団の平均点)/集団の標準偏差+50
知能偏差値と学力偏差値がわかれば、知能と学力の関係を検討することができる。成就値(AS)や成就指数(AQ)とよばれるもので、それぞれ次の式で求めることができる。
成就値(AS)=学力偏差値-知能偏差値
成就指数(AQ)=学力偏差値/知能偏差値×100
成就値が正の場合は知能以上に学力が伸びていることを示し、負の場合はその逆になる。成就指数の場合は100を基準に同じことが言える。成就値が+7、成就指数が100を大きく上回る場合をオーバー・アチーバーという。反対に成就値が-7、成就指数が100を大きく下回る場合をアンダー・アチーバー(学業不振児)という。学業不振の要因は幾つもの可能性が考えられる。学習意欲やメンタルの問題、障害や知的能力の偏り、環境や教師の指導能力などであり、ときにそれらが絡み合っている。学業不振児は早期の原因の発見と適切な処置が必要である。
18 September 2013
現代教職論
本レポートでは、1998年に改正された教育職員免許法の背景と、そこから、教師に何が期待されているのか、または教師として身につけておくべき資質と能力がどのようなものであるかについて考察を行う。
まず、教育職員免許法が改正された背景について述べたい。前述のように1998年に教育職員免許法が改正されたが、教育改革が行われるということは、社会が何らかの事情により教師と教育に変化を期待しているということである。つまり、社会が「悪化」もしくは「停滞」していると、社会を構成する人々が感じたとき、それを改善しようと次世代を担う子供たちと教育に託すのである。戦前であれば、1890年に発布された教育勅語にその理念が書いてある。その中には「★国家のための教育、国家のための教員という性格が強調」されている。ここでは善悪は置いておくが、近代国家を樹立したばかりの日本が、欧米諸国をモデルに近代的な国家観を拡げようとしている姿勢が見て取れる。戦後は、戦前の軍国主義や国家主義的な教育からの脱却と、自由・平等・民主主義を中心として人格の完成、個性の尊重、機会の均等を理念とした。また、終戦直後は学校施設と教員の欠乏と、それに伴い無資格教員が増大するという問題が起きた。無免許や専門外の教科では、授業の質の低下は免れない。そうして、本レポートで扱う「教育職員免許法」が施行されることになった。これらの例のように、教育は社会が目指すべき方向を指し示す、公共性が極めて高い機関といえる。
それでは、次に現在(1998)の日本が、教育改革を行わなければならない背景、つまり社会情勢について考える。明治期、または第二次大戦後のような大きな社会の転換ではないが、90年代の日本では、いじめや不登校、児童・生徒の自殺、学級崩壊など、それまで注目されなかった問題、それまでは起こらなかった問題が注目され始めた。これらの深刻な教育問題に対処することが、今回の教育職員免許法改正の狙いである。具体的には、高校第一種免許では、それまで「教科に関する科目」を40単位、「教職に関する科目」を19単位取得する必要があった。改正後の新カリキュラムでは「教科に関する科目」が20単位、「教職に関する科目」が23単位、その他に「教科又は教職に関する科目」が16単位となっている。改正前と改正後を比較すると、それぞれ合計では59単位と変らないが、「教科に関する科目」の比重を減らし、「教職に関する科目」を増やしていることが解る。高校第一種免許に限らず、幼稚園、小学校、中学校、どの免許区分においても、この傾向が認められる。一体、何を目的として、このような変更が行われたのだろうか。この改正に先立ち、1997年に教育職員養成審議会が文部大臣に提出した「新たな時代に向けた教員養成の改善方策について」の第1次答申を見てみたい。この答申は、「教職への志向と一体感の形成」「教職に必要な知識及び技能の形成」「教科等に関する専門知識及び技能の形成」を改正の中心に据え、いわゆる「教職教養」を重視している。「教科に関する科目」がほぼ半減され「教職に関する科目」がより重要視されているのは、この為である。教壇に立つ上で、その教科への専門性や技術といったものは、当然ことながら必要である。しかしながら、深刻な教育問題に直面している現在、教科以外の指導や、教育自体への理解が必要と考えられたからである。
これは次のことからも汲み取れる。新カリキュラムの中で「教職に関する科目」の比重が高まったことは既に述べたが、その枠組みも変更されている。それまでの「教育の目標及び本質に関する科目」は、「教育の基礎理論に関する科目」の中の「教育の理念、並びに教育に関する歴史及び思想」となっている。特定の科目の中で必要な事項を細分化して挙げている。また新カリキュラムには「教職の意義に関する科目」と「総合演習」が追加された。簡約にいえば、前者は「教師になること」ということについて深く考察することを目的とし、後者は「地球的視点に立ち、国社会全体に関わる課題を分析、検討できるようにする」というものである。その他の大きな変更点は、中学校の免許の場合、教育実習の期間が2週間から4週間に延長されたこと、介護等体験が必修とされたことである。
これまで、新カリキュラムの変更点を述べてきたが、ある一連性を見いだせる。それは、この複雑な現代社会の中で教壇に立つにあたり、今まで以上の幅広い教養と人間理解が必要だということである。また、そもそも教職課程というのは教員を目指す人間が踏まえておくべき課程であるが、様々な教育問題が叫ばれる現在、「現実的な教職がどういうものであるか」ということを理解し、それらの問題への解決能力を養うことを期待されているのだと、私は考える。
佐藤晴雄『教職概論』 学陽書房 改定版 2007年
吉田辰雄・大森正『教職入門 教師への道』 図書文化 改訂2009年
17 September 2013
日大通信レポート掲載について覚書
私は都内在住ながらスクーリングや勉強会、校友会活動にはあまり参加していないので、通信課程に在籍されている方々と顔を合わす機会というのが殆どない。
しかしながら、たまの説明会などに出席すると、通信課程で教員を目指されている方の人数に毎度驚かされる。やはり普通の大学とは違い、出身も年齢もご職業も様々、多様なキャリアをお持ちの方々である。
そのような方々とのお話の中でよく話題になるのが「レポートの難しさ」についてである。私自身も感じていることだが、日大通信のレポートは難しい。以前在籍していた大学のレポートは字数と参考文献がしっかりしていれば不合格になることはまずなかったが、日大は苦労した手書きのレポートが不合格で返されることがある。まるで間違った道を何キロも歩いてから間違いを指摘されたかのような虚脱感だ。
通信教育では、多くの場合授業を受けずに独学でレポートを作成することになる。
そのレポートについて相談できる教員や学友をお持ちの方も多くはないのではないだろうか。
働きながら限られた時間のなかで「無」から創造するのは大変な作業である。
そこで、私が合格したレポートの下書きデータをこのブログに掲載したいと思う。
無論、どれも出来が良いと言えるレポートではないが、参考になれば幸いである。
※もし、ご覧になる場合は恐縮ですが以下の点に注意して下さい。
・掲載するレポートは「日大通信 report」のタグで管理します。
・私はパソコンで下書きを行い大体の内容と字数を固めてから印刷をして、そこで細かい内容を推古し清書をしています。ここに掲載するものは下書き段階のもので、誤字・脱字、段落や表現の不適当なものが目立ちますが、そのままにします。
・私はパソコンで下書きを行い大体の内容と字数を固めてから印刷をして、そこで細かい内容を推古し清書をしています。ここに掲載するものは下書き段階のもので、誤字・脱字、段落や表現の不適当なものが目立ちますが、そのままにします。
・剽窃のリスクについては皆さまを信頼致します。
・私が掲載したレポートと偶然似てしまうケースがあるかもしれませんが、報告課題の多くは参考文献とキーワードが指定されていて合格基準を満たしているものに大きな差があるとは思えないことから、問題はないと判断します。
・私が掲載したレポートと偶然似てしまうケースがあるかもしれませんが、報告課題の多くは参考文献とキーワードが指定されていて合格基準を満たしているものに大きな差があるとは思えないことから、問題はないと判断します。
・講評については私の言葉ではありませんので、そのままでの掲載はしません。
16 September 2013
『解体英熟語』
私は今まで「英熟語」を集中的に学習したことがなかった。せいぜい高校のリーディング授業でたまに登場する熟語+αを知っているだけ。そういう人って意外に多いと思うけど、それでも大学受験程度の単語を押さえておけばTOEICでも700くらいは取れるだろうし、英字新聞などもなんとか意味を読み取ることができる。それで周囲からは「英語が得意」と思われ、本人もその気になったりするものだ。←体験談(笑)
そして、ペーパーバックを開いたとき、映画を字幕なしで見たときの絶望感に打ちひしがれるのも、その類の人ではないだろうか?笑
勿論、小説はそもそもの基礎語彙が圧倒的に足りないということもあるし、映画なら基礎的リスニング力が追いついていない可能性もある。
しかし、語彙が偏っている専門書は慣れ次第で結構読めたり、綺麗なニュース英語は思いのほか聴き取れたりするのも事実だ。
そこで
って思ったわけ。
今まで無理してペーパーバックを何冊か読んできたけれど、簡単な単語の連続なのにどうしても意味が解らないことが良くあった。
映画も然り、聴き取れない個所を英字幕で見ると知らない熟語だった、なんてことが多い。
日常会話ではラテン語やフランス語由来の小難しい単語よりも平易な単語が好まれる。日本語の日常会話でも漢語が滅多に使われないのと似ているか。(英語も日本語も近代に国家意識が拡がって固有語を使う運動が発生した歴史があったりする。結局どちらも失敗したけど。)
連続する音声から「意味の纏まり」を抽出するには、知識として単語や熟語を知っている必要がある(と思う)。特に成人して「外国語」として学習している場合にはね。
映画のような日常語が聴き取れない理由は「聞き慣れないカジュアルな発音」よりも「表現そのものを知らないこと」が原因ではないかと思ったわけ。
あと、まぁ準一級にも必ず熟語の問題があるから、その対策にもなるかな?なんてw
前置きが長くなったけれど、そんな私の「弱点」である英熟語を克服しようと思いZ会出版の『解体英熟語』を購入した。
著者は速単こと『速読英単語』で有名な風早寛氏。24歳にもなって受験生向けの教材を買うのは、ドキドキするのだけど(謎)
いや、全年齢向けでタメになるもの。実は塾で教えている生徒の一人がこれを使っている。その子は読解は未熟なのにマニアックな熟語の問題は得意だったりして、講師たるもの生徒に負けてはなるまいと本書を選んだわけ。
1000個近くの熟語が載っている中で、まだ200弱しか進んでいないが、薄々と効果を感じはじめてます。例えば、いままで「単語」で捉えていたものを「熟語」として捉えることで、より正確に読めたり。これ結構大事。
学習のやり易さは普通、というか文句はないレベル。良いってことなのかもね。
インデックスが充実しているが、殆ど使っていない。そのためにレイアウトが微妙になってる気がする。
熟語についての説明が詳しくなされていて一応読むけれど、あまり頭には入ってないかなぁ。
問題集にもなっているので復習はやりやすい。個人的にはそれが一番気に入っています。
一日10個程度のペースなら一周するのに3カ月かかるので、受験生は遅くとも3年の夏休み前には始めると良いでしょうね。英単語と文法の学習もある程度終了してからのが望ましい。
英検は2級でも準1級でも必ず熟語の問題が確か5問程度出題されるので、合格ラインにギリギリの方には有効でしょう。遠く及ばない方の場合、まずは単語から、でしょうけど。
そして、ペーパーバックを開いたとき、映画を字幕なしで見たときの絶望感に打ちひしがれるのも、その類の人ではないだろうか?笑
勿論、小説はそもそもの基礎語彙が圧倒的に足りないということもあるし、映画なら基礎的リスニング力が追いついていない可能性もある。
しかし、語彙が偏っている専門書は慣れ次第で結構読めたり、綺麗なニュース英語は思いのほか聴き取れたりするのも事実だ。
そこで
熟語が大事なんじゃね?
今まで無理してペーパーバックを何冊か読んできたけれど、簡単な単語の連続なのにどうしても意味が解らないことが良くあった。
映画も然り、聴き取れない個所を英字幕で見ると知らない熟語だった、なんてことが多い。
日常会話ではラテン語やフランス語由来の小難しい単語よりも平易な単語が好まれる。日本語の日常会話でも漢語が滅多に使われないのと似ているか。(英語も日本語も近代に国家意識が拡がって固有語を使う運動が発生した歴史があったりする。結局どちらも失敗したけど。)
連続する音声から「意味の纏まり」を抽出するには、知識として単語や熟語を知っている必要がある(と思う)。特に成人して「外国語」として学習している場合にはね。
映画のような日常語が聴き取れない理由は「聞き慣れないカジュアルな発音」よりも「表現そのものを知らないこと」が原因ではないかと思ったわけ。
あと、まぁ準一級にも必ず熟語の問題があるから、その対策にもなるかな?なんてw
前置きが長くなったけれど、そんな私の「弱点」である英熟語を克服しようと思いZ会出版の『解体英熟語』を購入した。
著者は速単こと『速読英単語』で有名な風早寛氏。24歳にもなって受験生向けの教材を買うのは、ドキドキするのだけど(謎)
いや、全年齢向けでタメになるもの。実は塾で教えている生徒の一人がこれを使っている。その子は読解は未熟なのにマニアックな熟語の問題は得意だったりして、講師たるもの生徒に負けてはなるまいと本書を選んだわけ。
1000個近くの熟語が載っている中で、まだ200弱しか進んでいないが、薄々と効果を感じはじめてます。例えば、いままで「単語」で捉えていたものを「熟語」として捉えることで、より正確に読めたり。これ結構大事。
学習のやり易さは普通、というか文句はないレベル。良いってことなのかもね。
インデックスが充実しているが、殆ど使っていない。そのためにレイアウトが微妙になってる気がする。
熟語についての説明が詳しくなされていて一応読むけれど、あまり頭には入ってないかなぁ。
問題集にもなっているので復習はやりやすい。個人的にはそれが一番気に入っています。
一日10個程度のペースなら一周するのに3カ月かかるので、受験生は遅くとも3年の夏休み前には始めると良いでしょうね。英単語と文法の学習もある程度終了してからのが望ましい。
英検は2級でも準1級でも必ず熟語の問題が確か5問程度出題されるので、合格ラインにギリギリの方には有効でしょう。遠く及ばない方の場合、まずは単語から、でしょうけど。
12 July 2013
Walk in the Light While There is Light
『光あるうち光の中をあゆめ』
トルストイの中編小説について備忘録を兼ねて。
内容については様々な書籍やブログ良く要約されたものが見られるので端折り、個人的な雑感だけ残したい。
まず、本書は「愛」について考えさせられるものであった。
「キリスト教的な愛」とは我欲の否定のベクトルにあり、それを我々が生きる俗世では「禁欲的」と表現する。主人公は「俗世の中での愛」すなわち自己愛やナルシズムのベクトルから、ときにキリスト教を攻撃し、ときにキリスト教と俗世の狭間で葛藤する。
現在の世界では「自己否定から出発する愛は到底受け入れられるものではない」と考えられている。私達は「第一に自分のことを考えなさい」と小さい頃から躾けられ、それこそが厳しい世の中を渡っていく根本原則であると心に刻まれるのだ。
トルストイは多神教的古代ローマを無神論的な近現代社会と重ね合わせた。キリストの教えを実践する原始キリスト教をこのフィクショナルな世界に置くことによって、この常識ともいえる自己愛肯定に一石の疑問を投じているのではないだろうか。
私達は生きていく上で労働をしなければならない。それは有史以前から変わらず、またこれからも変わらないだろう。タダで食べられるものが無限に存在しない限りは労働は不可避なのだ。
労働とは自分の能力や時間を犠牲にする行為であり、それを「愛」として歓びを見出すことができるのならば、その人は幸福の状態にあるといえる。
対して自己愛から出発すれば、何らかの犠牲を払う労働は不幸な状態であり、自己の不幸を減らすためには他者を働かせる(=不幸にさせる)なければならない。
オセロの駒のように自己否定の愛と自己肯定の愛は「犠牲」を巡った表裏一体のものであり、視点の違いなのである。
トルストイは「光」とは真理であり、真理とは人間の良心だという。
私達は実際には何も見えない真っ暗な世界に生きているが、この闇の中をぽつぽつりと蝋燭のように灯して世界の実態を照らそうとしてきた。
その点で学問と良心は良く似ている。きっと両者は共にあらねばならないのだろう。
トルストイの中編小説について備忘録を兼ねて。
内容については様々な書籍やブログ良く要約されたものが見られるので端折り、個人的な雑感だけ残したい。
まず、本書は「愛」について考えさせられるものであった。
「キリスト教的な愛」とは我欲の否定のベクトルにあり、それを我々が生きる俗世では「禁欲的」と表現する。主人公は「俗世の中での愛」すなわち自己愛やナルシズムのベクトルから、ときにキリスト教を攻撃し、ときにキリスト教と俗世の狭間で葛藤する。
現在の世界では「自己否定から出発する愛は到底受け入れられるものではない」と考えられている。私達は「第一に自分のことを考えなさい」と小さい頃から躾けられ、それこそが厳しい世の中を渡っていく根本原則であると心に刻まれるのだ。
トルストイは多神教的古代ローマを無神論的な近現代社会と重ね合わせた。キリストの教えを実践する原始キリスト教をこのフィクショナルな世界に置くことによって、この常識ともいえる自己愛肯定に一石の疑問を投じているのではないだろうか。
私達は生きていく上で労働をしなければならない。それは有史以前から変わらず、またこれからも変わらないだろう。タダで食べられるものが無限に存在しない限りは労働は不可避なのだ。
労働とは自分の能力や時間を犠牲にする行為であり、それを「愛」として歓びを見出すことができるのならば、その人は幸福の状態にあるといえる。
対して自己愛から出発すれば、何らかの犠牲を払う労働は不幸な状態であり、自己の不幸を減らすためには他者を働かせる(=不幸にさせる)なければならない。
オセロの駒のように自己否定の愛と自己肯定の愛は「犠牲」を巡った表裏一体のものであり、視点の違いなのである。
トルストイは「光」とは真理であり、真理とは人間の良心だという。
私達は実際には何も見えない真っ暗な世界に生きているが、この闇の中をぽつぽつりと蝋燭のように灯して世界の実態を照らそうとしてきた。
その点で学問と良心は良く似ている。きっと両者は共にあらねばならないのだろう。
7 July 2013
ツール・ド・箱根
この時期はツールがあるので、否が応でも自転車に乗りたくなってしまう。
先日、梅雨の中休みを狙って箱根までツーリングしてきた。
バイト後で真夜中のスタートだったが、夏は夜のが走りやすいよね。勿論、危険も多いわけだけど。
最初は246号で、平塚あたりで南下。134号で大磯まで行き、後は1号線。
途中、足が攣りそうになったのでゆっくりと。
帰りはずっと1号線、多摩サイ入って世田谷から環八へ。
箱根は良く行くのでルートをもう少し練りたい。
先日、梅雨の中休みを狙って箱根までツーリングしてきた。
バイト後で真夜中のスタートだったが、夏は夜のが走りやすいよね。勿論、危険も多いわけだけど。
最初は246号で、平塚あたりで南下。134号で大磯まで行き、後は1号線。
途中、足が攣りそうになったのでゆっくりと。
帰りはずっと1号線、多摩サイ入って世田谷から環八へ。
箱根は良く行くのでルートをもう少し練りたい。
6 July 2013
英検準一級
塾講師をやっていると英検対策の授業を頼まれることがよくある。中高生相手なので4級から2級の対策だ。
2級の問題は恥ずかしながら自分の英語力では稀に間違えてしまうことがあるので予習はしておく必要がある。正解はできるが理屈を説明できないことやド忘れした単語もあるし。
ただ他の講師を見ていると殆ど予習をしているように見えないのだが、果たして大丈夫なんだろうかと思う。それとも高校程度までの英語なら間違えないほどの英語力があるのか。
後者ならば自分の英語力が不安になってしまう。
ところで、自分は中学生のときにとった4級しか持っていない。
生徒や保護者に自分の級を尋ねられることがあるが正直あまり答えたい質問ではない。
負い目に感じているわけではないが、担当講師の英語力が4級とあっては保護者も大金を払いたくないだろうし生徒のモチベーションも変わるだろう。
こういうテストは本質的にはあまり興味もないんだけど、今の私の英語力を解りやすい形で証明できれば、そんな自他の不安をある程度解消できるのではないか、と。
そんな思いから英検準一級を受けることにした。とりあえずは10月のやつ。
英検の手伝いバイトを何回かやったことがあって小耳に挟んだんだけど、英検には色々メリットがあるらしい。
TOEFLやIELTSと同等の英語力と認定して留学を受け入れる大学もチラホラあるらしい。
他には企業採用や大学の単位認定とか。
ちなみに東京都の教員採用試験で実技免除を受けられるが、その条件は
・英検1級
・TOEIC900点以上
その他TOEFLもあるけど、TOEFLは受験料がな。。。
つまり、教採において準1級ではあまり意味がないんだけど、ま、とりあえず履歴書には書ける。
して、この実技免除は結構おいしいんじゃないか?
英検1級はかなりハードルが高く感じるんだけど、TOEIC900点は模試でとったこともあるし結構狙いやすい感じがする。とりあえず秋までは準1級を目標に据えて、首尾よく取得できればTOEIC900点にシフトしようと思う。
で、買ったのがこれ。
知らなかった意味をもつ単語や、ド忘れしていた単語、または知らない単語もあったので買った意味はあると思う。
要領よくやれば2週間くらいで一周できそう。
CDはやはり集中して聴かないと入ってこないので「ながら」では、効果がないと思う。
ちなみに例文の音声はネットで別売り。買ってみたけど、これは1120語分がワントラックになっていて使い辛いのお勧めできません。
次にこれ
英検っていったら旺文社が鉄板かな、と。うちの塾でも非公式に薦めてるし。
上記キクタンで頻出の単語は押さえられるけれど、こちらの問題を解きながら知らない単語を抜きだして別に覚えると、より効果的だと思う。
今の段階でどの問題も8割程度の正答率だが、例えば語彙選択の問題で選択肢に知らない単語があると結構不安になる。キクタンだけでは、選択肢の3/4程度しか網羅できないのではないかな。それで充分とみるか足りないとみるかは、その人次第でしょうけれど。
ただ、英検準一級以上に出題される英作文についてはどうしたものか。
こいつは、なかなか自分で採点がつけられないからね。
2級の問題は恥ずかしながら自分の英語力では稀に間違えてしまうことがあるので予習はしておく必要がある。正解はできるが理屈を説明できないことやド忘れした単語もあるし。
ただ他の講師を見ていると殆ど予習をしているように見えないのだが、果たして大丈夫なんだろうかと思う。それとも高校程度までの英語なら間違えないほどの英語力があるのか。
後者ならば自分の英語力が不安になってしまう。
ところで、自分は中学生のときにとった4級しか持っていない。
生徒や保護者に自分の級を尋ねられることがあるが正直あまり答えたい質問ではない。
負い目に感じているわけではないが、担当講師の英語力が4級とあっては保護者も大金を払いたくないだろうし生徒のモチベーションも変わるだろう。
こういうテストは本質的にはあまり興味もないんだけど、今の私の英語力を解りやすい形で証明できれば、そんな自他の不安をある程度解消できるのではないか、と。
そんな思いから英検準一級を受けることにした。とりあえずは10月のやつ。
英検の手伝いバイトを何回かやったことがあって小耳に挟んだんだけど、英検には色々メリットがあるらしい。
TOEFLやIELTSと同等の英語力と認定して留学を受け入れる大学もチラホラあるらしい。
他には企業採用や大学の単位認定とか。
ちなみに東京都の教員採用試験で実技免除を受けられるが、その条件は
・英検1級
・TOEIC900点以上
その他TOEFLもあるけど、TOEFLは受験料がな。。。
つまり、教採において準1級ではあまり意味がないんだけど、ま、とりあえず履歴書には書ける。
して、この実技免除は結構おいしいんじゃないか?
英検1級はかなりハードルが高く感じるんだけど、TOEIC900点は模試でとったこともあるし結構狙いやすい感じがする。とりあえず秋までは準1級を目標に据えて、首尾よく取得できればTOEIC900点にシフトしようと思う。
で、買ったのがこれ。
知らなかった意味をもつ単語や、ド忘れしていた単語、または知らない単語もあったので買った意味はあると思う。
要領よくやれば2週間くらいで一周できそう。
CDはやはり集中して聴かないと入ってこないので「ながら」では、効果がないと思う。
ちなみに例文の音声はネットで別売り。買ってみたけど、これは1120語分がワントラックになっていて使い辛いのお勧めできません。
次にこれ
英検っていったら旺文社が鉄板かな、と。うちの塾でも非公式に薦めてるし。
上記キクタンで頻出の単語は押さえられるけれど、こちらの問題を解きながら知らない単語を抜きだして別に覚えると、より効果的だと思う。
今の段階でどの問題も8割程度の正答率だが、例えば語彙選択の問題で選択肢に知らない単語があると結構不安になる。キクタンだけでは、選択肢の3/4程度しか網羅できないのではないかな。それで充分とみるか足りないとみるかは、その人次第でしょうけれど。
ただ、英検準一級以上に出題される英作文についてはどうしたものか。
こいつは、なかなか自分で採点がつけられないからね。
18 June 2013
TOKYO BIKE 改造遍歴
もう十年くらい前になる。親父がTOKYO BIKEって自転車を買ってきた。
パンクばっかりでウンザリしながら中学生の頃はこれに乗って文字通り東京中を走ったっけな。こいつで、よく神田の古本屋と楽器屋に行っていた記憶があります。
高校になると目立つ水色の車とスポーティーな感じが妙に恥かしくてあまり乗らなかった。
大学生になると自転車に目覚めて、通学やツーリングにも使った。やって解ったけどツーリングする自転車じゃないわな。
そんな私とトーキョーバイク10年の歴史
禁断のドロハン化
当時、ロードバイクに憧れてたんすよね。こうして見ると頭でっかちでイマイチです。でも、その時はドロハンついてる自転車はみんな格好良く見えた。
TOKYO BIKEのドロハン化をお考えの方は、ハンドルとステムの種類に注意して下さいね。基本的に、こういうクラシカルな車体にアナトミックはバランス悪いのですが、カタログなどでクロモリバイクを見てれば「こういうのがいいかな?」ってのが見えてくるはずです。
ステムとハンドルは知らずに特価品を買ったんだけど何気にリッチー!
コラム径が特殊だったり変速調整やら面倒だったの覚えてる。
昔のトーキョーバイクにはフロント用のアウター受けがなかったからフロントはシングルのまま。
ツーリング仕様編 @ 祇園in京都
TOKYO BIKEに前後キャリア&パニアバッグ4つ装着した人はなかなか少ないんじゃないかと思う。
これで野宿とかしながら色々ツーリングしたんですよ。フロントシングルで峠を越えてたって恐ろしい。
でも、時間次第で日本中回れるポテンシャルはあると思います。こんな使い方にも耐えてましたし。
そういえば昔は階段下りたりウィリーしたりしてたな、、、ごめんTOKYO BIKE
バーテープとかホイールとか細かいところ替えてますね。ブレーキは前後SORAにしました。
SORAって評判ほど悪くはないと思います。現在は105コンポのロードに乗っていますが、soraのブレーキでも50キロくらいまでの通常使用なら、制動力に差があるもののそれ程問題があるとは思えないです。
例えば競技使用など極限状態での性能には差が出るのでしょうけれど、そこまでのポテンシャル引き出せる人ってどのくらいいるんだろう?
この自転車に投資した金額を合計すれば、もっと性能の良いロードバイク買えるってことに気がついた頃です。
ママチャリ編
現在
カーボンロード買ったのを機にハンドルとステムをオリジナルに戻したの図。
MTBにつけてたDeoreのシフターとSORAのディレーラーで9速化。
アウターワイヤーとグリップは黄色でチャラくしてみた。
今のSports 9sってラインナップとほぼ同じスペックか。ドロハンつけてるときより走りそう。
この自転車は下手な改造はしない方がいいんだと思います。
近場の下駄代わりになったけど、この先また10年、いや20年はよろしく。
パンクばっかりでウンザリしながら中学生の頃はこれに乗って文字通り東京中を走ったっけな。こいつで、よく神田の古本屋と楽器屋に行っていた記憶があります。
高校になると目立つ水色の車とスポーティーな感じが妙に恥かしくてあまり乗らなかった。
大学生になると自転車に目覚めて、通学やツーリングにも使った。やって解ったけどツーリングする自転車じゃないわな。
そんな私とトーキョーバイク10年の歴史
禁断のドロハン化
当時、ロードバイクに憧れてたんすよね。こうして見ると頭でっかちでイマイチです。でも、その時はドロハンついてる自転車はみんな格好良く見えた。
TOKYO BIKEのドロハン化をお考えの方は、ハンドルとステムの種類に注意して下さいね。基本的に、こういうクラシカルな車体にアナトミックはバランス悪いのですが、カタログなどでクロモリバイクを見てれば「こういうのがいいかな?」ってのが見えてくるはずです。
ステムとハンドルは知らずに特価品を買ったんだけど何気にリッチー!
コラム径が特殊だったり変速調整やら面倒だったの覚えてる。
昔のトーキョーバイクにはフロント用のアウター受けがなかったからフロントはシングルのまま。
ツーリング仕様編 @ 祇園in京都
TOKYO BIKEに前後キャリア&パニアバッグ4つ装着した人はなかなか少ないんじゃないかと思う。
これで野宿とかしながら色々ツーリングしたんですよ。フロントシングルで峠を越えてたって恐ろしい。
でも、時間次第で日本中回れるポテンシャルはあると思います。こんな使い方にも耐えてましたし。
そういえば昔は階段下りたりウィリーしたりしてたな、、、ごめんTOKYO BIKE
バーテープとかホイールとか細かいところ替えてますね。ブレーキは前後SORAにしました。
SORAって評判ほど悪くはないと思います。現在は105コンポのロードに乗っていますが、soraのブレーキでも50キロくらいまでの通常使用なら、制動力に差があるもののそれ程問題があるとは思えないです。
例えば競技使用など極限状態での性能には差が出るのでしょうけれど、そこまでのポテンシャル引き出せる人ってどのくらいいるんだろう?
ママチャリ編
現在
カーボンロード買ったのを機にハンドルとステムをオリジナルに戻したの図。
MTBにつけてたDeoreのシフターとSORAのディレーラーで9速化。
アウターワイヤーとグリップは黄色でチャラくしてみた。
今のSports 9sってラインナップとほぼ同じスペックか。ドロハンつけてるときより走りそう。
この自転車は下手な改造はしない方がいいんだと思います。
近場の下駄代わりになったけど、この先また10年、いや20年はよろしく。
9 April 2013
walk this way
長らく放置気味だったけど再開致します。ま、どうせ誰もみちゃいないが。
本日は私の趣味の一つ自転車、と周りの温度差について。
中学生のときにクロスバイクを買って貰ったことが切っ掛けで、以来都内の移動には積極的に自転車を使うようになり、たまに長距離ツーリングなんかもするようになった。
趣味としての自転車というと、興味のない人には敷居が高く感じられると思う。
先月のこと、私が数年来欲しかったロードバイク(18万円)を買ったときは、その値段に周囲の人間がドン引いた。普通の人との温度差に改めて気がつく。
日本の道路事情は自転車に冷たいことこの上ないんだけど、人々の草の根の意識で「自転車は移動手段であって、競技自転車は特殊な道楽」なのだと改めて思った。
しかし、まぁ私にとっても自転車は移動手段である。ハンドルの捻じれた競技用の自転車に乗っているからといって競技する気があるわけではない。
自転車より速くて安くて安全で楽な乗り物なら幾らでもあるが、自転車の「ゆっくり進むこと」の贅沢さは替え難いものがあるのだ。
スポーツバイクなら10キロから20キロくらいなら思いのほか楽だと思う。もしチャンスがあったら試してみるのもよいのでは?
曲がるつもりのない角を思い付きで曲がれる乗り物ってなかなかない。
本日は私の趣味の一つ自転車、と周りの温度差について。
中学生のときにクロスバイクを買って貰ったことが切っ掛けで、以来都内の移動には積極的に自転車を使うようになり、たまに長距離ツーリングなんかもするようになった。
趣味としての自転車というと、興味のない人には敷居が高く感じられると思う。
先月のこと、私が数年来欲しかったロードバイク(18万円)を買ったときは、その値段に周囲の人間がドン引いた。普通の人との温度差に改めて気がつく。
日本の道路事情は自転車に冷たいことこの上ないんだけど、人々の草の根の意識で「自転車は移動手段であって、競技自転車は特殊な道楽」なのだと改めて思った。
私の買ったCannondale Supersix 5 2011
しかし、まぁ私にとっても自転車は移動手段である。ハンドルの捻じれた競技用の自転車に乗っているからといって競技する気があるわけではない。
自転車より速くて安くて安全で楽な乗り物なら幾らでもあるが、自転車の「ゆっくり進むこと」の贅沢さは替え難いものがあるのだ。
スポーツバイクなら10キロから20キロくらいなら思いのほか楽だと思う。もしチャンスがあったら試してみるのもよいのでは?
曲がるつもりのない角を思い付きで曲がれる乗り物ってなかなかない。
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