私は写真を撮られることが嫌いだ。更には、私の外見について何か言われることは、それが例え善意の褒め言葉であっても素直に受け取ることができないのである。
一体、何故だろうか?と、そのことについて、やっと考えが纏まってきたので備忘録。(まぁ俺のブログだし)
「目は口ほどに物を言う」なんて諺があるが、それはつまり、自分が沈黙していても「顔面」それ自体は何らかのメッセージを発するということでもある。初めはそれが原因ではないかと考えた。例えば、会話の最中に無表情でいれば「無関心」を表わす言外のメッセージになりえるし、そもそも私の場合であれば「20代男性」や「色黒だからスポーツでもやってそう」なんて記号にもなりえる。顔は人間の原初的なコミュニケーションツールであり、選択不可能な肩書でもあるのだ。
まぁ思春期には人並みのコンプレックスもあったが、今更「この容貌が気に食わない」などという美醜の問題ではない。私の顔に纏わりつく言外の言葉が、記号が、我慢できないのだ、と。
だって、そうでしょ?電車に乗ったときに、貴方の口が思ってもないことを勝手に喋り始めたとしたら。我々の顔面では常にそんなことが起きている。街に出れば、誰も彼もが無言で騒ぎたてているのだ。
私の顔は私のものである。故に私に従わねばならない。それを写真は、ただ一瞬を切り取って私の意思とは関係のないことを永遠に喋り続ける。またポーズや表情を上手に作れないので、私の写真は大抵変に強張っていてイヤらしいニヤケ顔だ。その写真は私にも語りかけてくる。お前は「こういう薄気味悪いニヤケ顔の人間なんだよ」、と。この過剰気味の自意識が私の「写真嫌い」の原因なんじゃないかと、そう考えていたわけ。
しかし、最近、コトはそれほど単純ではないと考えを改める機会があった。先日のハロウィンである。その日、私のFacebookのページには、思い思いのコスプレをした楽しそうな友達や知り合いの写真がとても見きれないほど沢山アップされた。もはやハロウィンとは何の関係のないコスプレも多く、初めは「いい年しちゃって、そもそもハロウィンの仮装って子供がやるもんなんじゃねーの?」なーんて嘲り気味にウンザリしたんだけど、彼ら彼女らのコスプレは実は私の写真嫌いと案外近い根を持つのかもしれないと、ふと思ったのだ。
人は、仮装を通して「普段の本人ではない別の何か」を表出させる。
そもそも、人間はアンビバレントな二極性を持った生き物であることを忘れてはならない。いわゆる「建前」と「本音」、「表」と「裏」やフロイトよろしく「意識」と「無意識」などとよばれるものだが、普通、本人は自らの「本音」など解らないし、アテをつけて説明しようと思ってもそれを上手に言語化することもできない。だから、他者に「本音」をブチまけることや「裏の顔」を見せても何の意味もないし面倒くさいだけだと普通の人間は学習している。例えば、おもちゃ売り場の前で泣き叫ぶ子供はいても大人はそんなことしないよね。当たり前だけども、「表」の同一性を保てない人間にマトモな社会生活を送ることはできない。そのうちに「本音」は心の深く深く、本人でさえも見つけられない場所に仕舞われていくのである。
しかし、隠れている「本音」は、その状態が続くことを良しとしない。そこで、本音は「祭り」や「芸術」、「無礼講の場」、もしくは精神的に昂ぶっている状態を借りてシャンパンの泡のようにフラフラと表面に出てくる。
トロブリアンド諸島には、年に一度だけ普段は威厳のある村の長老が女性たちにヤムイモを投げつけられるという祭事があるらしい。ヤムイモから逃げ回る半裸のジイサンを想像するだけで笑えるが、こうして日常の秩序が逆転することによって、人々は澱が溜まり鬱屈した心に平安を、曳いては社会に安定をもたらすのではないだろうか。ある特定の日、その日だけは、誰もがシンデレラになり、詩人となり、または関係を逆転させて「本音」を表出させるのだ。
「私を見て!かわいいでしょ?かっこいいでしょ?私を必要として!評価して!もっと僕に共感して!」
コスプレをした人々の心の中に一体どんな声が鳴り響いているのかは私には見当がつかない。
しかし、「本音」というやつは、ハロウィンを口実にコスプレというペルソナを被って、重い重い「建前」の覆いから這い出てくるのだ。ペルソナ(persona)とはすなわちパーソナリティ(personality)なのである。まぁ無論、これは全て私の底意地の悪い妄想だし、もし本当だったとしてもコスプレしてる人達が自覚的だとは思わないけどね。
ここで疑問が一つ浮かび上がる。
「なぜ、本音はコスプレで着飾って出てくるのか」ということである。
これに答える前に、恐縮だが少しだけ私の経験を述べたい。私は学生時代に運動部に所属していて、その殆どを補欠として過ごした。人数が少ないクラブだったので、学年が上がって同期生や後輩達(ろくに練習にこない奴もいた)がみな試合に出ているにも関わらずっと補欠である(笑)告白すると、彼らが活躍したりマネージャーから声援を送られたりしてるのをベンチから見るのは、羨ましくて悲しくて劣等感と喪失感で胸が詰まる思いだったのだ。何より親友を含めた味方を素直に応援できない不条理な感情への自己嫌悪にも苛まされたな。まぁ、こんなことはどうでもいいんだけど、心の中では、まさに「表」と「裏」の相克が繰り広げられていたのである。
そんなとき、私はあることに気がついた。「写真を撮って貰いたいと思う自分がいる」ということである。昔から写真は苦手だったので矛盾した感情だし、あくまで消極的なんだけど「紺のピンストライプ(←クラブのユニフォームね)を着て試合に出ているところを撮って欲しい」という欲求が芽生えたのだ。
マネージャー達は試合に出ている人間しか写さないので(当たり前だが)、当時の私の写真は殆ど残っていない。いや「ただの助平心じゃねーか!」と思われそうだけど、そんなことは自分が一番知っとるわ!
まぁ、きっと当時の私は自らのアイデンティティの殆どをクラブの一員であることに置いていて、その証明が欲しかったのだ。逆説的に言えば「写真を撮って貰えないこと」と「チームから除外されること」が私の頭の中で「=」で繋がっていた。なんでこんなに頑張ってるのに誰も自分を認めてくれないの?俺はチームの一員じゃないの?もっと見て欲しい、評価して欲しい、期待して欲しい。おそらく、そんな感情が私に相反する思いを抱かせたのだ。
ここで考えなければならないのは、あくまで「ユニフォーム姿の写真」に拘泥した点である。人間は他者に必要とされることで自らの存在を確認するのだが、当時の私は「チームに必要とされている存在」という象徴がアイデンティティの平穏を保つために必要だったのだろう。
写真を撮るのはいつも「非日常」の瞬間であるが、写真は永遠でもある。
友人と笑顔で撮った写真は永遠に残る幸せの印だし、成人式や卒業式での着飾った写真は美や成長、青春の証となる。卒業アルバムの授業風景だって「日常にみせかけた写真」であったことは皆覚えているのではないだろうか。ともかくも、そうした象徴を求める気持ちを単なるナルシズムと嗤いたくはない。
明治以前の本邦では、「写真をとると魂が抜かれる」という迷信が実しやかに囁かれた。写真に魔力を感じたというのは実に興味深い(率直な反応だと思う)が、もしかしたら写真用のペルソナ(ポーズなど)を持ちえなった当時の人々が、自分の「本音」まで見透かされることに恐怖したのではないだろうか。写真に慣れ、写真がもつ魔力も充分に理解している私達でさえ、そこに写るには仮面という触媒を必要とするのだから。逆説的だが、現代でも上手にペルソナを作れない者はやはり写真に魔力を感じ消極的になるのだ。
きっと、誰であろうと仮面の下に不条理で冴えない顔の「本音の私達」がしょんぼりと立っているのだろう。
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