20 October 2013

異文化こみゅにけーしょん

数年振りに『異文化(間)コミュニケーション論』なる講座を受講した、といっても講師も学校も違うけれど。
授業はババア講師の自分語りとグループディスカッションを交互に繰り返しての進行。通信らしく生徒の年代や職業がバラついていて、そういう人々との班毎のディスカッションはエキサイティングだった。しかしながら、講師の話に傾聴できるものは殆どなく単位を金で買った感は否めない(←個人的意見です)

ババアをつぶさに観察して二十余年、自称ババア研究家の私だから今回の講師について言いたいことも山ほどあるが、私ももう大人だし、ここでやっても一方通行の悪口なるので、ここらで溜飲をさげておく。
本日はタイトル通り今回の講義と「異文化コミュニケーション」について。

日本人が下手だと言われている「コミュニケーション」。その頭に「異文化」なんてついてしまうと、もうそれだけで頭がクラクラする。苦手意識は外国人(異文化と同意ではないが)恐怖症なるものに進化して、その克服のために「英語教育」へのプレッシャーは日ごと高まっている。らしい。
で、その問題の発見・考察、解決に結び付けていくのが「異文化コミュニケーション」なる学問だ。

なんか安易すぎんだろテメー!」と叫びたいところだが、仕方ない。そう来るなら、あえてその土俵で考えてみようじゃないか。

異文化間におけるコミュニケーション不全というのは、字義通り「文化」を「」にするが故に発生するものと考えよう。
日本人が日本で生活する中で「自分が日本文化に浸っていると自覚する」ことは殆どない。地理的、言語的など幾つかの要因が考えられるが、日本社会において「日本人」はとてつもなく大きなマジョリティなわけ。
海外旅行や留学、出張で初めて「私は日本人である」なんて自覚を持つ人も結構いるっていうしね。実際、筆者の周りにもそういう人はいます。
つまり「文化」や「民族的アイデンティティ」は異文化を迂回してこそ初めて自覚できるものだと私は考える。例えば、近代以前のそこらへんの農民に「おもてなしは日本文化ですか?」なんて質問しても「はぁ?」としか返されなかったはずだ。(そもそも、現代日本人のマインドをどんなに蒸留しても「おもてなし」が出てくるかは疑問であるが。)

じゃあ、「文化とは何か?」って言ったら、これが漠然とした概念の問題になる。
個人的には「特定の人々のマインド」が「言語行動と身体行動」として表出して「その上澄みの部分」が文化と呼ばれているんじゃないかと思ってる。「上澄み」がより洗練されれば、学問や芸術、もしくは伝統とよばれるのだろう。また、個々人の成長過程においては逆方向に文化・環境がマインドを形作っていくとも思うので、人々と文化は双方向的なのかな。
とにかく、人々はそうして育まれた価値観を通して外界と接触するようになる。

授業内の発表では「日本人としての自覚をもつことが異文化コミュニケーションの手筈になる」なんてことを言ってる人が結構いた。
講師も似たようなこと、例えば「日本人として日本文化の理解を深めることは必須である」ってな結論を述べて授業は終わった。


いやいやいや、それだけでいいのだろうか?

「手前が何人であるか」なんて、そんな名刺交換レベルのコミュニケーションなんか、そもそも問題にはなってないわけ。
普通に考えて「日本文化の知識」なんて網羅できるわけがない。わざわざ「調べなければ解らない」ということは(当人を形作る)生活に根差していないわけだし、伝統文化のような「上澄み」から日本人の考え方を抽出するのは相当洗練された知性が必要である。いってみれば、ワインを飲んでその葡萄の味を想像するようなものである。外国人に日本について何か聞かれても知らなければ「知らない」と答えればいい。無教養であるというのはギクリとすることだし、その感覚に担保されて我々の教養は拡大するが、中身の伴わないクイズ王みたいな知識を集めることも、結構な恥かしさだと思う。
本題に戻そう。異文化コミュニケーションの目的って、もっとプリミティブな部分でギャップの大きい人間同士がどうやってその相克を乗り越えるかってことなんじゃない?
確かに「自分が何者であるか」を自覚するというのは、大切かもしれないし、実際に気が遠くなるくらい大変な作業だ。だからこそ、私達の大切なアイデンティティの核を国籍というものに簡単に置いてしまっていいのか、と思ってしまう。「国籍」や「民族」というものは偶然的な社会的立場にすぎず(もちろん無碍にできるとも思わないが)、それが異文化間の人間関係において「印」にこそなっても居場所を提供してくれるわけではないのだ。

さっき、「人は文化の中で価値観を形作る」ってなこと書いたけど、同じ文化の中にいれば傾向があったとしても紋切型の同じマインドの人間が量産される、というわけではないじゃん。
勿論、文化や環境の影響は強く受けるだろうけど、人の価値観は人生をかけてその人が作ってきたものだ。
「日本人という自覚」なんていうのは、ときに都合の良いステレオタイプを自己暗示的に使うことになりえる(『オモテナシ』しかり『サムライ』しかり)。
まぁ、ここまで書いといて無責任かもしんないけど、異文化コミュニケーションの技術的なことなんか偉そうにあーだこーだ言う気はないんだ。そもそもケース・スタディであって、「正解」とよべるものや「秘訣」なんてものを求めることが間違っている。あるとすれば、文化相対主義、、というより「みんなで仲良くやりましょう」って気持ちくらいじゃないですかね。

ただ一つ。私なら、「貴方が何人であるか」や「貴方の国の豆知識」ではなく、貴方が何をどう捉えて、どう感じて、どう考えているのか、貴方の言葉で説明して欲しい。
つまり、自分の内面とのコミュニケーションを通じて表出してくる言葉、それをして私は初めて「貴方が何者であるか」ということを想像できるのだ。


12 October 2013

Judge not, that you be not judged.

ツイッターに不適切な書き込み…(サンスポ)
ロッテは10日、自身のツイッターに不適切な書き込みをしたとして、神戸拓光(こうべ・たくみ)外野手(28)を厳重注意した。
神戸は同日朝、東京・三鷹市で発生した女子高校生殺人事件について投稿。
殺害された女子生徒の名誉を傷つけるような内容がネット上で騒動となり、球団事務所には抗議電話が殺到した。
球団はフェニックス・リーグ(宮崎県)に参加中の神戸と連絡をとって文言を削除させた上、同日夜までに同じツイッター上で本人が謝罪した。
林球団本部長は「大変に申し訳ない。ご遺族、関係者に深くおわびします」と陳謝し、11日以降に追加制裁を科す可能性を示唆した。


人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(マタイ7:1-2)

山上の垂訓の一節である。三鷹の事件について、痛ましく思う人もいれば何の感情も抱かない人もいるだろう。しかし、わざわざ無関係だった人間が無責任な「裁き」を衆目に晒す必要があるのかと思わずにいられない。

この事件の幾つかの側面が、それぞれ少しずつ世間の好奇心を刺激しているように思う。
思いつくままに幾つか挙げてみれば、被害者が未成年の芸能人であったこと、加害者とネットを通じて知り合っていたこと、加害者がハーフであること、警察の対応がまたもや杜撰であったこと、などである。
そして、特にネットでは被害者の写真が流布されたという点で、センセーショナルな事件として扱われているのだと思う。

しかし、考えてみれば「警察に関すること」以外は、どれだけ悲劇的であっても偶然見えてしまった極めてパーソナルな問題である。誰かのプライベートに対して、野球選手だろうと誰だろうとが文句垂れる筋合いがあるのか?

そして、この垣間見えた個人の私生活も、その人間の小さな小さな断片にすぎない。
事情を知らない私達が、その断片を歪に繋ぎ合せてフィクションを作り出して楽しんでいるとすれば、とてつもなく下衆でおぞましいことじゃないか。
この事件の裏に何があったか知る由もないのに、それを加害者であれ被害者であれ裁くことなどできるはずがないではないか。

私の少ない人生経験の中でも、ボコボコにぶん殴りたいほどムカついた奴もいる。今更どうでもいいけど納得していないことも沢山ある。
逆に私を殺したいほど憎んでいるヤツだっているかもしれない。
まだ偶然行為に及んでいない、行為に至らなかっただけだ。もし事件になったとしても何も知らない奴らに、あーだこーだ言われたくはない。

偶然であれ彼ら彼女らのプライベートを覗いてしまった人間は、もはや事件と無関係ではないのかもしれないが、その中で「知ってしまったこと」と「知らないこと」を謙虚に見極めるべきではないだろうか。
我々は加害者が法に則って適切に裁かれることこそを見届けるべきではないか。



ハルカトミユキ    ニュートンの林檎


21 September 2013

『言語を生み出す本能』




スティーブン・ピンカー著
原題はTHE LANGUAGE INSTINCT  How the Mind Creates Language
(リンクは上巻のみ)

言語学関係の書籍としては一時期異例の人気を博した本書。読んでみれば、なぜブームになったのか理解できる。レベル的には、大学の眠くて仕方がない言語学の概説講座で扱われるような内容であるが、「よくある身近な例文」とスベり気味のユーモアを駆使することで読者を無理なく言語学の世界に近付けてくれるのだ。例文については、アメリカ、もしくは英語圏の人間のみを対照にしている嫌いもあるが、訳者の腕が良く解りにくさは感じない。

一口に「言語学」といっても、その分野は様々である。音韻論、音声学、意味論、語用論、形態論、そして難解な統語論(生成文法)と認知言語学についての位置関係も掴みやすい。外国語学習をする際には「母語との違い」ばかりが気になるが、凡そ人間の言語にこれほどの共通点がある、と知るのは新鮮な驚きである。また、それらの解説が「どのように人間は言語を生み出しているのか」という本書のテーマである問いに有機的に繋がっていく様は、まるでミステリー小説を読んでいるかのようだ。大袈裟だが学問の快楽とはこういうものだろう。

さて、褒めるのもそこそこに笑
著者はサピア=ウォーフの仮説(本書では言語決定論)やジョージ・オーウェルの『1984』に登場する「ニュー・スピーク」などを固く撥ねつけている。
言語相対論は簡潔にいえば人類学で提唱された理論であり「人間は母語を通して外界を認識する」というものである。オーウェルのニュースピークは「思考を制限するために作られた人工言語」というフィクションである。

スティーブン・ピンカーの言語本能説の立場からは、そのような説(?)を認めるわけにはいかない。例えば古代日本語はblueもgreenも「アヲ」と表現したし現在でもその境界は曖昧であるが、上代の日本語話者がそれらを見分けられなかったわけではない。つまり「例え何語の話者であろうとも、知覚する世界が違うわけではない」という考え方になる。

ピンカーはサピア=ウォーフ仮説を批判するのに大袈裟な例や言語相対仮説の失敗した実験例や根拠薄弱な例ばかりを引用しているが、そもそもこの仮説には「言語が知覚の様式を決定する」とする強い仮説と「言語が知覚に影響を及ぼす」とする弱い仮説の2種類が存在していて、現在の主流は弱い仮説であるので極端なものばかりを論じても仕方がないのだ。
当のサピアもウォーフも言語と認識の関係については「必然ではない」と述べているわけだしね。

必要ないかもしれないが、ここで私の愚考を披露すると、言語には本能的側面と文化的側面があり、両者はメビウスの輪の表裏のように分かち難く結びついていると考える。
異文化に接したことがあれば異なる行動、規範、価値観といったものを感じる人が多いだろうが、文化はときに人間の生理現象にまで影響する。言語は文化と密接に結びつき、ときに言語と文化が表裏一体であるが故に「言語が知覚に影響を及ぼす」のである。
言語から文化を引き算するのは困難であるので、些か妥協的だが、我々の思考や知覚、経験は「考えられている程には言語には縛られていない」と言えるかもしれない。しかし、「全く縛られていない」とするのはやはり無理があると感じる。

20 September 2013

発達と学習

このレポートでは、知能と学力の関係について述べたい。まず、知能と学力それぞれを定義し明確にした上でそれぞれにどのような関係性があるのかを考える。「知能」はこれまで多くの先人たちによって様々な定義がなされてきた。普段、我々が使う意味では、他人が思いつかないような発想で物事を解決・向上させる能力や、暗記する能力などに用いることが多い。現在のところ知能の定義は数多くあり、そのどれも決定的とは言えないため、確立はされていない。例えば、心理学の分野では大まかに、抽象的な思考能力、環境への適応能力、学習する能力と考えられている。しかしまがら、このレポートでは知能を明確に数値化して考える必要があるため、ボーリングによる「知能とは知能テストにより測定された能力である」という定義を用いる。

 知能を測るための知能測定は様々な形式が作られ、また改良されてきた。知能検査にはおおまかに集団式と個別式がありそれぞれに長所と短所がある。集団式は簡便であり一度に多人数を検査することができる反面、環境による信頼性に疑問も残る。個別式の知能検査には、ビネー式とその改良型である鈴木ビネー式や田中ビネー式、そしてウェクスラー式といったものがあり、本レポートでは主にこちらの個別式について述べたい。

 ビネー式は1905年に原型つくられ、その後の改訂を経て世界に普及した知能検査である。同年齢集団の3/4が正答する問題をその年齢の基準とし、知能年齢と実際の年齢の関係から知能指数を割り出している。知能指数の式は次の通りである。

知能指数(IQ)=精神年齢(MA)/生活年齢(CA)×100

また、この知能指数から知能偏差値(ISS)を求めることができる。知能偏差値とは、主に同じ年齢の集団内で特定の個人の知能がどの位置にあるかを示すものであり、その利点は後述する学力偏差値との比較が容易になるということや、母集団のばらつきがある場合でも相対的な位置が把握しやすいことが挙げられる。
☆知能偏差値(ISS)=10(個人の得点-集団の平均点)/集団の標準偏差+50
という式で知能偏差値は求められる。標準偏差は16とされている。

ウェクスラー式の知能検査は1939年にアメリカで開発され、以後改良や各国語への翻訳が行われた。ウェクスラー式の特徴は、言語性IQ、動作性IQ、全体のIQが算出できる点、対象年齢者によって検査を選択できる点、そして偏差知能指数(DIQ)を採用しているといったことである。(田中ビネー式においても乳児用のテストを採用している。)
偏差知能指数(DIQ)もやはり、集団内での個人の知能の位置を相対的に表すことができる。この場合、平均は100で計算される。

偏差知能指数=15×(個人の得点-同一年齢集団の平均点)/同一年齢集団の標準偏差+100

という式で表わされる。ウェクスラー式の標準偏差は15であり、知能偏差値への転換も容易である。
 
 次に学力について考えたい。学力の定義は知能以上に難しいが、一般的に学業成績など課題や科目を学習した到達度からみる能力と課題と科目を学習する能力の二つの側面があり、互いに密接に結びついている。また、それに加えて学ぶ意欲や主体的に問題を解決する能力など、内面性も含めるとする意見もある。この学力を測定するのに、学力検査がある。学力検査によって学習の成就度が測れ、延いては知能検査との比較が可能になる。ただし、学力検査の種類と評価の仕方は幾つもあるので注意が必要である。ここでは、個人の学力が全国でどの位置にあるか確認することができる全国標準学力検査を用いたい。学力検査の結果を偏差値に換算したものを学力偏差値という。知能偏差値が集団内で個人の知能の位置を示すように、学力偏差値によって集団内での個人の学力の位置を把握することができる。学力偏差値は次の式で求まる。
 
 学力偏差値=10×(個人の得点-集団の平均点)/集団の標準偏差+50

知能偏差値と学力偏差値がわかれば、知能と学力の関係を検討することができる。成就値(AS)や成就指数(AQ)とよばれるもので、それぞれ次の式で求めることができる。

 成就値(AS)=学力偏差値-知能偏差値
 成就指数(AQ)=学力偏差値/知能偏差値×100


成就値が正の場合は知能以上に学力が伸びていることを示し、負の場合はその逆になる。成就指数の場合は100を基準に同じことが言える。成就値が+7、成就指数が100を大きく上回る場合をオーバー・アチーバーという。反対に成就値が-7、成就指数が100を大きく下回る場合をアンダー・アチーバー(学業不振児)という。学業不振の要因は幾つもの可能性が考えられる。学習意欲やメンタルの問題、障害や知的能力の偏り、環境や教師の指導能力などであり、ときにそれらが絡み合っている。学業不振児は早期の原因の発見と適切な処置が必要である。

18 September 2013

現代教職論

 本レポートでは、1998年に改正された教育職員免許法の背景と、そこから、教師に何が期待されているのか、または教師として身につけておくべき資質と能力がどのようなものであるかについて考察を行う。

まず、教育職員免許法が改正された背景について述べたい。前述のように1998年に教育職員免許法が改正されたが、教育改革が行われるということは、社会が何らかの事情により教師と教育に変化を期待しているということである。つまり、社会が「悪化」もしくは「停滞」していると、社会を構成する人々が感じたとき、それを改善しようと次世代を担う子供たちと教育に託すのである。戦前であれば、1890年に発布された教育勅語にその理念が書いてある。その中には「★国家のための教育、国家のための教員という性格が強調」されている。ここでは善悪は置いておくが、近代国家を樹立したばかりの日本が、欧米諸国をモデルに近代的な国家観を拡げようとしている姿勢が見て取れる。戦後は、戦前の軍国主義や国家主義的な教育からの脱却と、自由・平等・民主主義を中心として人格の完成、個性の尊重、機会の均等を理念とした。また、終戦直後は学校施設と教員の欠乏と、それに伴い無資格教員が増大するという問題が起きた。無免許や専門外の教科では、授業の質の低下は免れない。そうして、本レポートで扱う「教育職員免許法」が施行されることになった。これらの例のように、教育は社会が目指すべき方向を指し示す、公共性が極めて高い機関といえる。

それでは、次に現在(1998)の日本が、教育改革を行わなければならない背景、つまり社会情勢について考える。明治期、または第二次大戦後のような大きな社会の転換ではないが、90年代の日本では、いじめや不登校、児童・生徒の自殺、学級崩壊など、それまで注目されなかった問題、それまでは起こらなかった問題が注目され始めた。これらの深刻な教育問題に対処することが、今回の教育職員免許法改正の狙いである。具体的には、高校第一種免許では、それまで「教科に関する科目」を40単位、「教職に関する科目」を19単位取得する必要があった。改正後の新カリキュラムでは「教科に関する科目」が20単位、「教職に関する科目」が23単位、その他に「教科又は教職に関する科目」が16単位となっている。改正前と改正後を比較すると、それぞれ合計では59単位と変らないが、「教科に関する科目」の比重を減らし、「教職に関する科目」を増やしていることが解る。高校第一種免許に限らず、幼稚園、小学校、中学校、どの免許区分においても、この傾向が認められる。一体、何を目的として、このような変更が行われたのだろうか。この改正に先立ち、1997年に教育職員養成審議会が文部大臣に提出した「新たな時代に向けた教員養成の改善方策について」の第1次答申を見てみたい。この答申は、「教職への志向と一体感の形成」「教職に必要な知識及び技能の形成」「教科等に関する専門知識及び技能の形成」を改正の中心に据え、いわゆる「教職教養」を重視している。「教科に関する科目」がほぼ半減され「教職に関する科目」がより重要視されているのは、この為である。教壇に立つ上で、その教科への専門性や技術といったものは、当然ことながら必要である。しかしながら、深刻な教育問題に直面している現在、教科以外の指導や、教育自体への理解が必要と考えられたからである。

これは次のことからも汲み取れる。新カリキュラムの中で「教職に関する科目」の比重が高まったことは既に述べたが、その枠組みも変更されている。それまでの「教育の目標及び本質に関する科目」は、「教育の基礎理論に関する科目」の中の「教育の理念、並びに教育に関する歴史及び思想」となっている。特定の科目の中で必要な事項を細分化して挙げている。また新カリキュラムには「教職の意義に関する科目」と「総合演習」が追加された。簡約にいえば、前者は「教師になること」ということについて深く考察することを目的とし、後者は「地球的視点に立ち、国社会全体に関わる課題を分析、検討できるようにする」というものである。その他の大きな変更点は、中学校の免許の場合、教育実習の期間が2週間から4週間に延長されたこと、介護等体験が必修とされたことである。

これまで、新カリキュラムの変更点を述べてきたが、ある一連性を見いだせる。それは、この複雑な現代社会の中で教壇に立つにあたり、今まで以上の幅広い教養と人間理解が必要だということである。また、そもそも教職課程というのは教員を目指す人間が踏まえておくべき課程であるが、様々な教育問題が叫ばれる現在、「現実的な教職がどういうものであるか」ということを理解し、それらの問題への解決能力を養うことを期待されているのだと、私は考える。

佐藤晴雄『教職概論』 学陽書房 改定版 2007
吉田辰雄・大森正『教職入門 教師への道』 図書文化 改訂2009